雨上がり 4

「経験値?」
「そう。彼女はこの道十年のベテランで、沙耶、おまえはこの世界に飛び込んでまだたかだか数年だろ。俺がさ、今なんでここにいるか分かるか? いや、おまえがいるこの場所が分かったのは、おまえの同期だって子が教えてくれたからなんだが、」
 きっと、あかりだ。
 誠二と沙耶に繋がりがあることも、沙耶がここにいることも、どちらもあかりしか知らない。
「……まあ、それはいいとして。俺が昨日の今日でまたこっちに来る羽目になったのは、平たく言えばプラン変更だ。かなりの規模でごっそり変わったもんだから、それに付随する照明やらカーテンやらも丸々変更になったんだよ。そして多分これからも頻繁にこういうことがある。今の客な、かなり当たりが強いっていうか、契約直後から急な変更やら何やらで色々とトラブってんだよ。ふだんなら『もう発注かけたので無理です』って突っぱねるんだが、上司の親戚筋なもんだから多少の無理難題は受け入れざるを得ないっていうか。たぶん、竣工までにもう一波乱二波乱はあると思ってる」
「だから、なの? 私には荷が重いってこと?」
「まあ、端的に言えばな」
 あっさり断定されたことで明らかなるショックを受け、またそれを露骨に顔に出してしまっていたらしい沙耶を、誠二は改めて「まあ、最後までちゃんと聞け」と、いなした。
「おまえの仕事含め、俺らのこの仕事はいろんな物を扱うって言っても、結局は『対人間』だ。客にはいろんな人間がいる。この前おまえが担当したオーナー夫婦のように気のいい人間ばかりじゃない。なかなかに難しい施主もいる。一生に一度の大きな買い物をするんだ、仕方ないといえば仕方ないんだけどな。けどまあ、そういう人間への対応は一日二日で身につけられるもんじゃないんだよ。経験積んで覚えていくしかない。とくに今回の物件は規模もでかい上に納期もあまりないときてる。おまえじゃたぶん、捌ききれない」
「……でも、私だってそういうお客さんにあたったこともあるし、大きな物件だって、」 ふいに誠二の手のひらが額にあてられた。反射的にびくりと身体が震える。誠二の手はやけに冷たく感じられた。手は頬へと移り、さらにブラウスの襟元から潜り込むようにして首筋にあてがわれた。
「おまえ、やっぱりまだ熱あるだろ」
 きのう、夜中になって熱が出た。朝、まだ熱は下がっていなかったが、解熱剤を飲んで何とか凌いだ。
「だ、大丈夫だって。今はもうそんなに高くないから」
 言って逃げようとするが、誠二の手はそれを許さなかった。
「今日もう一日休めって言ったろ」
「休んでるひまなんか、ない」
 仕事は山積みだ。やりたいことも、やらなければいけないことも、まだまだたくさんある。立ち止まっている暇などないのだ。
 誠二は沙耶の首元に置いていた右手をすっと抜き去ると、その指先で沙耶の額を軽く突いた。 
「ほら見ろ」
 弾かれた額を押さえ、視線で「何が?」と、問う。
「だからおまえには任せられないって言うんだよ。今回はとくに、な」
 誠二の右手が戻ってきた。今度は頬に、やさしく、そっと包み込むようにして当てられる。
「いつもそうだ。おまえはいつだって全力で突っ走りすぎなんだよ。だからすぐに息切れしちまう。オーバーヒートした挙句、きのうみたいにぶっ倒れちまう。手を抜け、とは言わない。けど、適度に力を抜くことも覚えろ」
「……力を、抜く?」
「おまえは肩に力入りすぎ。客のために精一杯、もいいが、もちろんそれは大事なことだが、もう少しゆっくりでもいい。まずは自分のことを、」
 覆いかぶさるようにして、誠二の大きな身体に抱き締められる。
 自分をもっとちゃんと大事にしてくれ。掠れた声が耳元で囁いた。
 それは命令ではなく、懇願だった。
 ふいに、彼の手のぬくもりが、一晩中、背中をさすってくれた彼の手のやさしさが蘇る。
「私、」
 縋るようにして、誠二の背中に手を回した。広くて大きな背中。腕に、きゅっと力を込める。
「今すぐじゃなくてもいいから。いつか、……いつかあなたとちゃんと仕事をしたい」
 誠二は沙耶の肩に顎をのせると、ゆるゆると沙耶の髪を撫でながら、「言っとくけど、俺の客はねついのばっかだからな」と、半ばぼやくようにして言った。
「うん」
「こだわりが強すぎて、メーカーにもどこにも相手にされなくて泣きついてくる客がほとんどだ」
「……そうなんだ」
「一癖も二癖もある客ばっかだし、家自体も濃いのばっかだ」
「うん」
「けどな、その分やりがいもあるし、おまえにとっていい勉強にはなると思う。だから、な、次は万全の状態で待機しとけ。言っとくけど、俺のダメ出しは容赦ないからな」
「……覚悟、しときます」 
 誠二のスーツに顔を埋めたまま呻くように言うと、腕を掴まれ、身体を押し戻された。かと思うと今度は腕をぐっと引かれ、そのまま口づけられた。味わうように唇ごと含まれる。舌先が唇の皺をひとつひとつ確かめるようにゆっくりとなぞっていく。いつもと違い、とてもやさしい、やさしいキスだった。
「こんなことならちゃんと言っとくべきだったな」
 唇を離し、誠二がぼそりと呟いた。
「ほんと。せめて昨日でも言ってくれてたらよかったのに」
「泣くだろ」
 間髪入れずに返された言葉に、誠二の顔を見る。
「正直、言おうかどうしようか迷った。けど、あんな状態で聞いたらおまえ、絶対泣くだろ。具合悪くて寝込んでるっていうのに。だから……言えなかった」
 否定できない自分が情けない。とはいえ、やはり何だかまだ悔しいので、少し意地悪をしてみることにする。 
「ねえ、誠二さん」
 ネクタイをきゅっと締め直したところだった誠二が、視線だけこちらに投げて寄越す。
「誠二さんってさ、じつは私のこと、ものすっごく愛してるんじゃない?」
 愛してる。なんて言葉、口が裂けても言わない彼へのほんの少しのお返し。どうせ「うん」とか「ああ」といった肯定の言葉さえも聞けはしないだろうが。だからいつものお決まりの台詞を待った。だが、予想した言葉はなかなかやってはこなかった。
 誠二は虚を衝かれたように動きを止め、沙耶を見ていた。やがて、眉間に寄った皺がみるみるうちに深くなる。もしかして何か怒らせてしまっただろうか。沙耶が不安になり始めた頃、誠二はいきなり踵を返した。
「……るか」
 ぼそぼそと、背中越しに聞こえたほとんど消え入りそうな声。
「ねえ、もう一回、言って?」
 聞き間違い、じゃないよね?
「あほか」 
 今度こそ、いつもの台詞を置き土産に、誠二は逃げるようにして出て行った。扉が閉まる直前、「せめて今日は定時であがれよ」との念押しを忘れずに。
「あんなの、反則だよ」 
 誠二の背中を見送り、ひとり残された沙耶は思わずしゃがみ込んだ。
「また熱、上がったかも」 
 燃えるように熱い頬を、手でぱたぱたと煽ぐ。
 うまく仕掛けたつもりが思わぬカウンター攻撃を食らい、見事に撃沈。
 
 ──愛してもいない女のために、こんなしちめんどくさい真似わざわざするか。
  
「ほんと、反則」
 胸のなかに一気に広がった甘さをもてあました沙耶は、窓のほうを見た。
「あ、……雨」
 いつの間にか外は明るくなっている。
 雨は、止んでいた。 

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