雨上がり 3

 細身の濃紺のスーツを着た誠二は全身に何ともいえない威圧感を纏っていた。
「おまえ、さっきのあれは一体なんなんだ?」
 地の底を這うような声に、喉の奥がひくっと震える。沙耶は思わず一歩後ずさった。
「話の途中だってのにいきなり携帯ぶち切りやがって。しかも今もおまえ、俺から逃げようとしてただろ」
 靴音の主が探していたのはカタログでも資料でもなかった。どこで知ったのか、ここにいるはずの沙耶だったのだ。
「キャッチが入っただなんだって、よくもそんな見え透いた嘘を」
 図星だったわけだが、根拠もなく嘘だと決めつけられ、カチンとくる。大体、誰のせいでそんなことをする羽目になったと思っているのだ。 
「に、逃げようとしたって、そんな、私、入ってきたのが誠二さんだとは思ってなかったし。それに大体、誠二さんがいけないんでしょ!」
 まさか反撃を食らうとは思っていなかったらしく、僅かに怯んだ誠二にさらに畳みかける。
「うちと取引することになったなんて、そんな大事なこと、私にはぜんっぜん教えてくれなくて。私が、いつか誠二さんといっしょに仕事したいって、それを目標に、それだけを目標にひたすら頑張ってきたの知ってるくせに! もし知ってたら、もし誠二さんが会社来るって知ってたらきのう休んだりなんかしなかった。喘息だってなんだって、たとえ雨が降ろうが槍が降ろうが、這ってでも仕事しに出て来たのに! そしたら、……そうしたらもしかして槇村さんじゃなくて、私が、……私が担当させてもらうことだってできたかもしれないのに。なのになんで、なんで言ってくれなか……っ……」
 目と鼻の奥のほうがじんわりと痺れて、喉が震えて、語尾はほとんど言葉にならなかった。持っていたハンカチで目元を拭い、ずっと鼻を啜る。俯いた沙耶の前髪を、誠二の溜息が小さく揺らした。
「それで?」
「それで、……って」
 のろのろと顔を上げる。
「それでいじけてここに籠って泣いてたってわけか」
「い、いじけてるって、なによそれ!」
 まるで子供のような扱われ方に思わず噛みつく。
「俺がおまえとではなく、『美人で仕事もできて料理までできる槇村さん』と組むことになったから妬いてるってわけだな?」
「な、なっ……!」
 あまりに身も蓋もない言われように沙耶は言葉を失う。
 誠二は腕組みをし壁に背中を預けると、大きく息を吐きだした。
「俺は、担当が彼女になってよかったって、そう思ってる」
 頭のてっぺんから思い切り冷水を浴びせかけられた気分だった。しかもそれはたっぷりと氷の入った、きんきんに冷えた冷水だ。
「どちらにしろ、彼女に頼むつもりだったからな」
 外では少し、雨が激しくなったようだ。室内が雨音に満たされる。
 全身を濡らした水が、指先からぽたぽたと滴り落ちていくような、そんな気がした。
「そっか。そう……なん、だ。そうだよね」
 一歩、下がった。そしてさらにもう一歩。足元がふわふわする。
 いやというほどに突き付けられた温度差。相変わらずの一方通行。
 いっしょに仕事をしたい。自分の目標であり切望でもあった。それは彼も同じだと、彼もまた望んでいることだと。勝手にそう思っていた。だがそれはあまりに図々しい押し付けだった。
 そのことに今、気がついた。 
 この道を選んだのも、彼の背中を追いかけようと決めたのも自分自身だ。強要されたわけではない。頑張ってきた? だから何だというのだ。努力は必ず報われる。そんな甘っちょろい戯言が許されるのはせいぜい学生時代まで。結果が出せなければ何の意味もない。
 選んでもらえなかったのは、実力がなかったから。
 ただそれだけだ。
 羞恥に身体が震えた。耐えられない。
 とっさに逃げ出そうとした沙耶の腕を誠二の手が掴む。 
「おい、待てって」
「……ごめん。今言ったこと、全部忘れて」
「最後まで話を聞け」
 お願い。
 これ以上みじめにさせないで。
「はなしてってば」
 渾身の力を込め振り解こうとした腕は逆に強く引かれ、気がついたときには誠二の腕のなかだった。
「沙耶」
 宥めるような声に、胸の奥のほうが小さく震えた。
「……わかってる。私じゃまだ全然ダメだって。槇村さんの足元にも及ばない。そのくせ、なんで私を選んでくれなかったの、なんて。バカだね、私。ごめん、今更ながら、すごく、恥ずかしい」
「沙耶、いいから聞けって」
 ほんの少し切羽詰ったような誠二の声が、頬を押し付けた胸板越しに聞こえてくる。
「この前、駅前の新しくできたカフェに行ってきた。料理もうまいが、内装がお洒落でかわいいって評判を聞いてな」
 お洒落で、かわいい? 「お洒落」はともかく、「かわいい」という言葉は彼からは最も縁遠い言葉のような気がする。意味不明な話題転換に戸惑いつつも、黙って誠二の話に耳を傾ける。
「たしかによかった。各テーブル、それぞれにデザイン違いのペンダントライトがぶら下がってんだ。あそこのメーカーはデザインにちょいクセがあるが、うまいこと内装にぴたっと合わせてきてた。ソファーのファブリックの色も主張し過ぎず、かといってちょっとアクセントがきいてて、床の色ともよくマッチしてたな。惜しむらくは壁が塗りじゃなく、クロスだってとこだな。まあ、それは予算上仕方なかったんだろうが」
 だろ? と目線で同意を求められ、沙耶は誠二を見上げた状態でこくこくと頷く。
「本当は塗りにしたかったんだって。珪藻土使いたかったんだけど、予算がぎりぎりで泣く泣く諦めたって」
「……そうか」
「ペンダントライトは初めは全部一緒のにしてたんだけど、お客さんに何度来てもらっても、そのたびにちょっとした変化を楽しんでもらいたいんだって、それで、」
 そうか、と誠二がやさしく、頷くように瞬く。
「わざわざ見に行って、くれたの?」
「オーナー夫婦が、客として来たらしい友人カップルに話してるのが聞こえた。カトラリーや食器類なんかのアドバイスまでしてもらって助かったって。すごく感謝してるって」
 つい先日オープンしたばかりの、オープンテラスのあるカフェ。沙耶がコーディネイトを依頼された店だった。予算的にかなり厳しく、家具の類などはメーカーに直接掛け合った。頼みに頼み込んで、他の物件との抱き合わせということで、ほとんど卸に近い値段で入れてもらえることになった。
 あちこち奔走し、規模の割になかなかに骨の折れた物件だった。だが、自分とあまり年の変わらない若いオーナー夫婦の、嬉しそうな、とても幸せそうな顔を見ることができた。それだけでもう、満足だった。
「おまえと槇村さんには決定的な違いがある。それが何か、分かるか?」
 沙耶の肩を押しやり、身体を離した誠二は沙耶の顔を覗き込むようにして尋ねた。
 決定的な違い。なんだろう。センス、頭の回転のはやさ、決断力。
 ダメだ。どれひとつとっても敵わない。決定的も何も、あれもこれも違い過ぎる。沙耶は力なく首を振る。
「そんな考え込むようなことじゃない。とても単純なことだ」
 ぽん、と沙耶の頭の上に誠二の手がのる。
「経験年数。──つまり、経験値だよ」

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