雨上がり 2

          * * *

 昼の休憩時間、あかりのランチの誘いを断り、資料室へと向かう。早急に必要となった商品カタログを準備するため、というのは口実だ。少し、ひとりになりたかった。それに食欲もあまりない。
 案の定、資料室には誰にもいなかった。扉を閉めたところで携帯電話が鳴った。相手を確認した沙耶は、はあ、と深呼吸を大きくひとつしてから通話ボタンを押した。
「担当、槇村さんになったんだってね」
 開口一番そう告げると、一瞬の間のあと、
「……ああ、聞いたんだな」
 という返答が返ってきた。とくに感情のこもらない、平坦な声質。電話越しでは表情まで窺うことはできない。
「聞いたんだな、じゃないよ。今日会社来てはじめてその話聞いてびっくりしたんだから。なんで教えてくれなかったの」
 あまり不自然にならない程度、ほんの少しだけ不貞腐れた体を装う。夜にでもこちらから電話をかけようと思っていたため、それに備え、脳内で何度もシミュレーションをした。ちゃんとその通りにできたはずだ。
「彼女、すごく喜んでたよ。『里村誠二』と仕事できるなんて、って」
 今、社内には沙耶を含め三人のコーディネーターがいる。そのなかでも一番のベテランが槇村絵里である。センスがよく、顧客のニーズを的確に、しかも素早く汲み取ることに長けている彼女を指名する声は後を絶たない。
 追いつけ追い越せ。さすがにとてもそんな大きなことは言えないが、沙耶にとって彼女は目標であり、憧れであり、そしてよきアドバイザーでもあった。
「槇村さん、どう?」
「どうって?」
「美人でしょ」
「まあ、そうだな」
「彼女、すごくモテるんだよー」
 美人なのに気取ったところがなく、明るく屈託のない絵里は社内外問わずファンが多い。
「当たり前だよね。美人な上に仕事までできるとくればさ。おまけに料理の腕もピカイチなんだって。前ね、差し入れだって手作りのケーキをわざわざ持って来てくれたんだけど、ほんとプロ顔負けの出来でね。私なんて料理はからっきしだから、料理できる人ってほんと尊敬する。それにしても誠二さんもすごくラッキーだったよね。槇村さん、指名多くていつも予約パンパンなんだよ。それなのに新規の誠二さんが組めるなんてさ。あ、もしかして槇村さんのほうからのご指名とか? うーん、そこはさすが『里村誠二』だよね」
 うろうろと忙しなく、狭い通路を行ったり来たりしながら、ほとんどまくしたてるようにしゃべった。
 本当は私がやりたかった。誠二さんと仕事したかった。いつか、彼と肩を並べて仕事をする。彼の造った建物に色を、つける。彩りを添えるほんの少しの手伝いを。
 ずっとそれを目標に頑張ってきた。それだけを目標に頑張ってきた。ずっと、ずっとずっとずっと──
「沙耶、おまえ今どこにいる?」
「彼女、すっごくセンスいいしさ。彼女に任せとけば間違いないよ。絶対絶対間違いない。あ、ごめん。キャッチ入ったから切るね」
「おま、ちょっと待──」
 強引にぶち切った携帯を握りしめ、ずるずるとその場にへたり込む。もう、限界だった。念のため電源を落とした手に、ぱたり、と涙が落ちる。堰を切ったように溢れ出た涙は止めどなく頬を伝い落ちた。
 慌ててスーツのポケットを探る。取り出したのは有名ブランドのロゴが入ったハンカチ。奇しくもそれはこの会社に入ってすぐ、槇村絵里から「お近づきのしるしに」とプレゼントされたものだった。顔を埋めると、タオル地のハンカチは嗚咽も涙もぐんぐんと吸い込んでいった。
 どのくらいの時間、そうしていただろうか。
 かちゃ、という音に顔を上げる。誰かが入ってきた。とっさに一番奥の棚の影に隠れる。そのまま隠れてやり過ごそうかとも思ったが、気づかれないようにそっと出ることにする。きっと今、顔はさぞやひどい有様になっているに違いない。とても社内の人間には見せられないような。
 午後からは打ち合わせもある。何とか化粧で誤魔化すしかない。幸い、出てすぐのところにトイレがある。よかった。化粧ポーチを持って来ておいて。
 そろそろと壁伝いに歩き始める。ヒールが音を立てないよう踵を上げ気味にして。不自然な歩き方に足を攣りそうだ。扉まであと数歩というところまで来たときだった。背後に気配を感じた。直後、肩を思い切り引かれ、思わず声を上げる。おそるおそる振り返った沙耶はもう一度、ちいさく悲鳴を上げた。
 驚いたのもある。だがそれより何より、恐怖を感じたからである。沙耶の視線の先、そこには眉間に深い皺を刻ませ、瞳の奥に見たこともないような暗い翳を落とした誠二が立っていた。

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