雨上がり 1

 その日は朝から雨だった。
 
 かちゃ、とドアノブが押し下げられる音に、弾かれるようにして顔を上げた。
 どうしよう。ふだん、この時間帯にはあまり人の出入りがないとはいえ、ここは社内だ。油断していた自分を心底呪った。
 隠れるか、それとも入れ替わりにさり気なく出るか。俯いていれば誤魔化すことはできるだろう。逡巡した末、音を立てないよう一番奥の棚の影に移動した。直後、きゅ、っとリノリウム床が鳴った。誰かが入ってきたのだ。
 資料室はそれほど広くはない。が、分厚いカタログがぎっしりと詰め込まれたアルミ製の書架が所狭しと立ち並んでいるため、室内の見通しはそれほどよくはないのだ。運がよければ見つかることなくやり過ごせるかもしれない。だがもし相手がこちらまで来るようであれば──どうしよう。
 息を潜め、意識を音に集中させる。雨が窓ガラスを打ち付ける音に混じり、踵がカツカツと床を叩く音が近づいてくる。細いヒールではなく、広い面積の踵が床を打ちつける音。どうやら男性のようだ。
 足音はゆっくりと近づいてくる。何を、探しているんだろう。お願いだからこっちに来ないで。祈るようにして両手を固く握り合わす。
 気配は確実に近づいてきていた。いっそ、今からでも出入り口を目指すべきかもしれない。書架の反対側を回れば、おそらく気づかれはしないだろう。こんないかにも、な体勢をしているところを見つかれば言い訳のしようもない。
 よし、出よう。今ならまだ間に合う。そう決意し、そろそろと壁伝いに歩き始める。扉までもう少し、というところまで来たときだった。突如、左肩をぐい、と掴まれた。ひ、と喉の奥で悲鳴が弾ける。持っていたポーチは手から転げ落ち、床の上で鈍い音をたてた。おそるおそる振り返った沙耶は、そこでもう一度ちいさく悲鳴を上げた。

          * * *

「え? 誠二さん来たの? ここに?」
 不本意ながら喘息の発作のせいで会社を休んでしまった翌日のことだ。
 出社するなり、あかりに捕まった。そして聞かされたのは、ついきのう誠二がこの会社を訪れたというものだった。
「ほら、この前言ってたじゃないですか。梶原さんが今度新しく取引きすることになったところに挨拶に、って。その新規の取引先っていうのがどうやら一之瀬さんの彼氏さんの会社だったらしくて、きのう、お客さん連れて打ち合わせに来られたんですよ。私もうびっくりして!」
 興奮気味に話していたあかりはそこでふと、怪訝そうに眉根を寄せた。
「って、一之瀬さん、もしかしてそのことご存知なかったんですか?」
「……ご存知、なかった」
 誠二はどちらかというと公私をしっかりと分けるタイプだった。どうしてもやむなくというとき以外は休日に仕事を持ち込むようなことはしない。今まで、ふたりでいるときに仕事の話が出たこともほとんどない。ないのだがそれにしても。
 それにしても、だ。
「なんで、言ってくれなかったんだろ」
 ついこぼれた本音。慌ててあかりのフォローが入る。
「あ、もしかして、一之瀬さんをびっくりさせようとしてた、とかじゃないですか? 実際、私もびっくりしましたし。それはもうすっごく」
 あかりのやさしい気遣いに曖昧に笑って返す。
 あながち、外れてはいないかもしれない。誠二にはたまにそういったところがある。沙耶を揶揄い、時に驚かせ、沙耶の反応を見て楽しむ。誠二の意外に子供じみた一面だ。
 タイミングが悪かったな。
 昨夜、誠二が呟いた言葉の意味が今、わかった気がした。
「驚かせるにしたって限度があるよ」 
 不貞腐れ気味に呟き、そして「あ、そうか」と、あることに思い至る。
「そうか、って何がですか?」
「あ、うん。きのうの夕方、誠二さんが突然うちに来たんだ。平日に来ることなんて滅多にないからすごくびっくりして。で、具合悪いのになんで電話を寄越さないって怒られて。どうしてだろうってちょっと思ったんだ。具合悪いのが初めから分かってたような口ぶりだったから。でも、きっときのうこっち来たときに私が休んでること知ったんだろうなって」
 ふと視線を感じ、顔を上げる。あかりが何やら含んだような笑いを口許に湛え、こちらを見ていた。
「な、なによ?」
「いやー、一之瀬さん、やっぱ愛されてるなーって」
「は!? なっ、ちょっ、」
 あかりが目をきらきらさせながら身を乗り出してくる。 
「だって、一之瀬さんの彼氏さん、打ち合わせ中もひっきりなしに電話掛かってきててすごくお忙しそうだったのに、彼女が具合悪いの知って、本人に呼ばれたわけでもないのにわざわざ駆けつけてくれるなんて! もー、一之瀬さん、愛されまくりじゃないですか。ねね、そう思いません?」
 そう言って、目をきらきらとさせながら身を乗り出してきたあかりに圧されるようにして、沙耶は逆に、じり、と後ずさる。
「……お、」
「お?」
「……思いま、す?」
「ちょっとちょっと、なんでそこで疑問系なんですかー」
 あかりが思い切り不満気な声を上げるが、沙耶は「だって」と呟いた。 
 愛されている。大事にされている。──と思う。たぶん。
 けれど。
 ずっと、一方通行だった。半ば強引に、押し切るような形で始まった関係には何ともいえない不安と後ろめたさがいつだって付き纏ってきた。
 仕方ないなあ。沙耶の働きかけに応えてくれる誠二の顔にはいつもそんな感情が見え隠れしているような気がしてならないのだ。
 朝まで傍についていてくれた誠二はコーヒーを一杯だけ飲むと、慌ただしく出て行った。
 ずっと一緒にいたのに。話す機会はいくらでもあったのに。そんな大事なこと、私にとって何よりも重要なことなのに、それを黙ってるなんて。
 一晩中背中をさすってくれていた手の感触はいまだ肌に残っている。なのに、玄関先で見送った彼の背中は今、何だかぼんやりとけぶってしまっていた。

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