そのたった二歩の距離がもどかしくて 2
車に乗り込み、ハンカチを取り出そうとバッグを探る。探りながら恥ずかしさに手が震えた。
すっかり気持ちが落ち着いた今、後から猛烈な勢いで追い掛けてきた羞恥が今まさに追いついたところだ。散々、泣いた。誠二の腕のなかで。一週間近く溜めに溜めていたものをすべて吐きだした。きっと顔はひどいことになっているにちがいない。しかもよりによって自分の勤め先の前で、だ。月曜日、どんな顔をして出社すればいいのだろう。
バッグから手を出す際、いちばん上になっていたものを引っかけてしまった。足元に転がり落ちそうになったのを危うくキャッチする。
「なんだそれ?」
誠二がハンドルを握ったまま、ちらりと視線だけ寄越して尋ねた。
「あ、うん。バレンタインデーのお返しだって」
中身はまだ確認していない。軽く振ってみるとカタカタと音がした。重さや大きさからいって、菓子の類だろうか。
「バレンタインデーって?」
何気なくこぼした言葉に返事が返ってきたことに、わずかながら焦りを覚える。
「あ、いや、もちろん義理よ義理。社員の女の子全員で男性社員全員に配ったの。お返しは皆からってことでもう貰ってるから要らないって言ったんだけど、世話になったからとかなんとか」
一気にまくしたてたあとでふと、我に返る。なんで梶原ごときに私が。
そう、相手は梶原だ。やましいことなど何もない。あるはずもない。なのに、なんとなく言い訳じみた言い方になってしまったことに何とも言えない悔しさと歯痒さを覚える。
それに誠二がそんなことを気にするわけもないのに、だ。
「……へえ」
ほらやっぱりだ。
誠二の反応は案の定、そっけないものだった。少しだけ、がっかりしてしまう。好きでもない男、いやむしろ嫌っている男との仲を勘繰られるのは癪だが、何も思われないというのも、それはそれでほんの少し寂しい気もする。自分でも勝手だとは思うのだが。
それきり会話が途絶える。横目で誠二を窺う。だが、その横顔からはとくになんの感情も読み取れなかった。思っていることがすぐに顔や言葉に出てしまう自分とは違う。咀嚼し、消化まで済んでから表に出される誠二の言葉や何かは自分のものと比べてはるかに重い。──が、分かりにくくもある。
沙耶は諦め、視線を窓の外に移した。道路が渋滞しているため、景色はゆっくりと流れている。
「窓、ちょっとだけ開けていい?」
泣いてしまったせいか、顔がすこし火照っていた。
「ああ」
返事とともに、パワーウィンドウが少し下げられる。冷たい空気が、車内のぬるい空気と混ざった。夜の匂いと、クラクションや人の話声といった街の喧噪が僅かに空いた隙間から滑りこんできた。目を瞑る。適度な振動が心地いい。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。車がバックする音で目が覚めた。
「……あ、ごめん」
凭れかかっていたドアから身体を起こし、外を見る。
「着いたんだね」
夜遅くまで営業している馴染みの定食屋の駐車場だ。安価で味がよく、量も多い。大学が近いこともあり、時間帯によっては学生で溢れていて待つこともあるが、さすがにこの時間ならすんなり入れるはずだ。
シートベルトを外し、ドアに手をかけた沙耶を「なあ」と、誠二の声が引き留める。
「そいつって、」
振り返ると、誠二の視線は沙耶のバッグからのぞいた箱に注がれていた。
「うん?」
シートに深くかけ直し、その先に続く言葉を待つ。が、それきり言葉は続かなかった。
店の裏手に位置する駐車場には人の気配もなく、エンジン音がしなくなった車内はとても静かだ。
「誠二さん?」
「……いや、なんでもない。行くか」
そう言いつつ、車を降りようとする気配のない誠二に首を傾げる。と、顔が近づいてきた。目を閉じる間もなく、唇が重なる。触れるか触れないかぐらいに、ごく軽く。
「髭、伸びてる」
くすくすと笑いながら、頬から顎に手を滑らせる。手のひらにざらつきを感じた。無精者ではあるが、職業柄、いつもわりと身嗜みには気を遣っている誠二のこういった姿は何だか新鮮だ。
「なあ」
額と額がぶつかる。ひんやりと冷たい。
「来週……、週末くらいにでも改めて行くか」
額をつけたまま、睫が触れそうな距離で、視線だけで問いかける。
「今日、予約してたとこ」
「え? そんな、いいよもう。そんな……気にしなくても」
思わず身体を離して顔を見る。暗がりのなか、誠二の目がゆっくりと瞬いた。
「金曜日は?」
「……ほんとに、いいのに」
「いやか?」
そんなわけがない。そんなこと、あるはずがない。
「そっちこそ、いいの? ああいうとこ、本当は嫌いでしょ?」
テレビや雑誌でたびたび目にする、夜景のきれいなフレンチレストラン。一度行ってみたいという我儘は、ホワイトデーのときにとっておいた。
「べつに嫌いとは言ってない。好きじゃないだけだ」
何それ、と笑ってしまう。つられたように、誠二の目尻もわずかに下がる。
本当は、どこだっていいのだ。フレンチだろうが、中華だろうが、定食屋だろうが、ファミレスやラーメン屋だってかまわない。
誠二の手が伸びてくる。髪を撫でられ、そのまま引き寄せられる。ありがとう、という言葉はキスによって呑み込まれてしまった。

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