「なあ、もしかして寝た?」
 ベッドに横たわった、少し前から沈黙する背中に声をかける。返事は、ない。ほんの少し顔を寄せると、微かな寝息が聞こえた。やはり眠ってしまったらしい。俺は細く息を吐き、身体に入っていた力を抜いた。
 道端で偶然拾った。遠い昔に捨てたはずのもの。──いや、ちがう。結局、捨てきれなかったものだ。何年もの長いあいだずっと、惨めったらしく引き摺り続けてきたもの。
「……秋月」
 小さく口の端にのせたその呼びかけに、もちろん返事は、ない。彼女の髪が、肩から滑り落ちた。アルコールとは違う甘ったるい匂いが一瞬、濃密になる。
 七年という年月は彼女を「少女」から「女」に変えていた。長く伸びた髪、かつての日焼けのあとなどどこにも見当たらない、白くなめらかな肌、やわらかな──身体。
 思わず手を、伸ばしていた。何かに吸い寄せられるように。指先が彼女を捉える寸前、彼女の肩が小さく震えていることに気がついた。肩越しに顔を覗き込み、息を呑む。
 彼女は泣いていた。静かに、泣いていた。
 頬が濡れている。固く閉じた目から溢れだしたものが、濡らしている。
 伸ばした手で、輪郭をそっと撫でる。そのやわらかさに喉が鳴り、手の甲をくすぐる彼女の吐息に、何かが一気に背筋を這いのぼった。
 慌てて手を引き戻す。ほぼ同時に彼女が目を開けた。
「……ごめん。なんか、つらそうだったから」
 先手を打ち、謝罪する。気づかれてはいないだろうか。
「こっちこそ、ごめんね」
 眠ってしまったことを、あるいは泣いていたことを恥じているのか、彼女は両手で顔を覆った。乱れた髪から覗く細い首筋、薄い皮膚の向こうに血管が透けていた。言いようもない衝動が突き上げる。
 すぐそこに、彼女がいる。
 彼女は俺の手をとった。自らの意思で。
 それはつまり──
 ベッドが鈍く軋む。そして、

 すんでのところで引き留められた。あまりのタイミングの良さに、自分がしようとしていたことを誰かに見咎められたような、そんな苦い気分になる。
 デニムの尻ポケットを探る。入れっぱなしにしていた携帯電話がバイブで着信を告げていた。
「ちょっとごめん」
 立ち上がり、相手を確認する。液晶画面に映し出された名前に、口のなかに苦いものが広がっていくのを感じた。なんでだよ。よりによってなんでこのタイミングで。
「……もしもし?」
『もしもし、耀か? 俺だよ、俺。沼野。沼野正輝。覚えてるか?』
 瞬時に脳裏に浮かんだのは、ボールを片手にコート内を縦横無尽に動き回るヤツの姿。
「おー、すっげー、久しぶりだな」
 キッチンへと向かい、シンクに身体を預ける。 
 高校時代、同じくバスケ部に所属していた沼野は一年の時からレギュラー入りしていたポイントゲッターだ。沼野が入部してからは試合のギャラリーが格段に増えた、と当時の部長が憎々しげに話していたのを思い出す。
 共通の友人から携帯番号は聞いていたものの、もう何年も連絡はとっていない。
『久しぶり、じゃないだろー。なんでおまえ来てないんだよ』
 電話の向こうはやけに賑やかだ。それに負けじと、だろう。張り上げられた声が耳に痛い。携帯を耳から少し離す。
「……わりい。ちょっと仕事が押してさ」
『なんだよ、それ。おまえも来るって聞いてたから楽しみにしてたんだぞ。ま、かくいう俺も、じつはついさっき来たばっかなんだけどさ』
「そっか、わりいな」
 懐かしい声。時計の針が瞬く間に逆回転し始める。
『今、二次会の真っ最中なんだ。今からでもいいからさ、来いよ。いろいろと積もる話もあるし。仕事、もう終わったんだろ?』
「あー、まあ、」
 玄関に近い照明をひとつ点けただけの室内は薄暗く、半分、闇に溶けたベッドの方を見やる。彼女はあいかわらず背中をこちらに向けたままだ。もしかしたらまた眠ってしまったのかもしれない。
『そういえばおまえさ、その、何か聞いたか?』
 沼野はどことなく慎重な口ぶりで言った。
「何かって、何を?」
 質問の意味を捉えかね、尋ねる。沼野は沈黙した。
「なんだよ。もったいぶらずに言えよ」
 せっつくと、電話の向こうから『くそ、藪蛇だったか』と、苦った声が聞こえた。
『いや、もしかして誰かから話聞いてるかなあと思ってさ』
「だから何のだよ」
『俺の結婚話』
「は?」
『いや、知らないなら知らないでべつにいいんだけどさ』
 ──もうじき、結婚するんだって。
 ──空、みたいな人。
「……結婚って、おまえの話だったのか」
 つぶやき、俯く。ちら、と上げた視線の先に、こちらを見ている彼女がいて、どきりと
心臓が跳ねた。目が、合った気がした。口のなかがあっという間に干上がる。
 なんとなく予感はあったのだ。だから沼野の話にそれほど驚きはなかった。なかったのだが──
『いや、でもそれさ、ガセだから』
「は?」
『いや、ガセっていうか、まあ結婚話は本当なんだけど、正確には本当だったんだけど、ちょっとまあ色々とあって、だな、そのう、結婚自体流れたっていうか、取りやめになってさ』
「え? ちょっ、待てよ。取りやめって、それってどういう……?」
 誰かが耳元でがんがんと何かを打ち鳴らしているみたいだった。次第に激しさを増していく音が、容赦なく耳の奥を穿つ。
『まあ、どうもこうもないんだけどな。とにかく結婚はナシってことだよ。だけどさ、なんかその俺の結婚話ってのがずい分と広まってるみたいでさ。おめでとー、って言われるたんびに説明しなくちゃなんないこのバツの悪さったらないっての。ほんと、参ってんだよ。正直、このタイミングでの同窓会に参加した俺も悪いんだけどさ』
「……そうか。そりゃなんていうか、災難だったな。それで、その相手とは?」
『なんだよ、おまえ。えらくしつこいな』
「いいから」
『相手とはもうきっちり終わったよ。けじめはちゃんとつけた。ま、周囲はまだ多少ごたついてるけどな』
「……そうか」
 俺の重く吐いた息を聞き咎めた沼野が『なんだよ』と、不審げな声を出す。
「おまえの名前、今すぐ記憶から抹消してーわ」
 ぼそりと呟いた言葉はどうやら相手には届かなかったようだ。ま、そんなの不可能だけど。仕方がないので、頭のなかで自らツッコミを入れる。
『それよりおまえ、早く来いよ』
「いや、今はちょっと、」
『もしかして誰かといっしょ、とか?』
 明らかなからかいの言葉に、携帯を持つ手に力がこもった。彼女を見る。微かに声が聞こえた。まさき君、と。  
「なあ、おまえ、覚えてるか?」
 自分の声が、やけに遠くから聞こえた。
(あなた、とてもやさしいのに)
 囁くような彼女の声が脳裏に蘇る。
「秋月、」
 俺は大きく息を吸い、吐息とともにその名を口にした。
「……秋月優雨(ゆう)のこと」
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