晴れた空を見ると思い出す。
あの人のことを。
あの人の笑顔を。
だから見上げた空の青は
いつもほんの少ししょっぱい。
晴れの日は雨が降る。
心の中に
雨が降る。
◇ ◇ ◇
そういえばさ、まさきのやつ、結婚するんだって。
思わず箸を落としてしまった。摘まんでいたものといっしょに。
「へ、へえ。そうなん……だ」
声が震えた。おまけにかなり間抜けに裏返った。もしかしたら顔は青くなっているかもしれない。
だってさっき、音がしたから。さああ、って砂が流れていくような音。血液が一気に足元へと流れ落ちていく音。それはいつかテレビで見た黄色い砂漠の砂の波がたてる音によく似ていた。
指先から徐々に冷たさが広がっていく。頭のてっぺんが冷水を浴びせかけられたかのようにじんじんと痺れた。そっか。血の気が引くってこういうことを言うんだ。頭のどこかでぼんやりと思った。
ふと視線を下げた私の目が捉えたのは鮮やかな色をしたサーモントロ。ぱっと見で分かるくらいに脂がよくのっていて、食べたらきっとおいしかったに違いない。同じく落ちていた箸で慌ててそれを摘み上げた私は、小さく息を吐いた。
オーガンジーを重ねた、白いチュールスカートは今日下ろしたばかりのものだ。ふんわりとしたやさしいラインが気に入って買った。
食事の時にはいつもちゃんとハンカチを敷くようにしている。なのに今日に限ってなぜ。
畳の上に正座した、ちょうど太腿と太腿のあいだ。よりによってど真ん中についた濃い紫色の染みはきっともう取れないだろう。
「結婚って……いつ?」
落としてしまった刺身を紙ナプキンで包みながら思い切って尋ねてみる。
高校を卒業して六年ぶりの同窓会。高校時代よりほんの少しぽっちゃりした彼(たしか名前は大木君だったと思う)は運ばれてきたばかりの唐揚げを口に放り込みながら「うーん」と、顔を傾けた。
「たしか六月、とか言ってたような。……たぶんだけど。俺、そんな親しくなかったし、式にも呼ばれてないからよくは知んないんだけどさ」
六月。そんな、あとたった二か月しかない。
「ジューンブライド……かあ。女の子なら誰しも一度は憧れるよね」
声が、手が、震える。寒いわけでもないのに。
私はグラスを引き寄せると中味を一気に飲み干した。滅多に飲まないアルコールは舌にはなんの味を残すこともなく、ただ、胃の中を燃えるように熱くした。だけどそれでもまだグラスを持つ手の震えは止まらない。
落ち着け落ち着け。心の中で呪文のように繰り返す。動揺していることを誰にも知られたくはなかった。情報の発信源である大木君にはもちろん。
幸い、大木君の興味はもうすでに「カマンベールチーズフライ」に移っていたようで、「うん、憧れるよね」と訳の分からない乙女発言が返ってきただけだった。
私はそっと安堵の息を漏らすと、二杯目のグラスに口をつけながら視線を巡らせた。
会場となっているここは、駅横の高架下に店を構える全国にチェーン展開している居酒屋だ。立地と、大人数が入れる個室が確保できるという理由で選出されたこの店の料理の味は、まあそれなりだ。
部屋のあいだの仕切りを取り払い、広い空間となった室内にはにざっと見て五十人。もちろんすべて同級生ではあるものの、全員の名前と顔が一致するわけではない。そしてそのなかに、やはり彼の姿を見つけることはできない。
地元に帰ってきていると聞いた。今日、同窓会に参加するとも。もう、来ないのだろうか?
席は到着した順に各々が空いた場所に座っていったため、少し遅れてきた私には選ぶ余地もなかった。
ひたすら食べることに熱中している右隣の大木君はともかくとして、やたらと馴れ馴れしく話しかけてくる左隣の村松君だか村野君だかに、適当な相槌を打って応対するのにもそろそろ疲れてきた。在学中、彼とは同じクラスになったことがない。それどころか、言葉を交わしたことさえないのだ。
ちょっとお手洗いに。私はそう言って、席を立った。
スカートについた醤油染みは水で濡らしたハンカチで叩いたくらいではやはりどうにもならなかった。諦め、濡れてしまったハンカチをミニタオルに挟んでからバッグにしまう。そのままトイレから出ようとして、私はふと入り口のところの姿見に気がつき、その前に立った。
鏡の中には女の姿があった。
あまり顔色がいいとは言い難い、どちらかというと辛気臭い表情をして立っている。
肩下まである髪は毛先がふんわりとカールしている。丸い襟のついたカットソーに、膝丈の白いチュールスカート。胸元に光っているのは小さなダイヤのついたネックレスだ。手にはころんとしたフォルムがかわいい、ブランド物の春の新作バッグ。
精一杯がんばっておしゃれしてきました。まさにそんなかんじだ。そう、それなのに。
思わずくすりと笑うと、鏡の中の彼女もまた、おかしそうに笑った。視線を下げると彼女も同じように俯いた。
せっかくの彼女の頑張りのすべてを台無しにしてしまっているのは、スカートのほぼド真ん中についた染みだ。水に滲み、むしろ範囲が広がり薄青くなった染み。それが何だかあまりに惨めで。──惨めで。
掃除の行き届いた、くもりひとつない鏡の表面にそっと右手で触れる。手と、手が、合わさった。
「……せっかく、頑張ったのにね」
今日のためになけなしのボーナスをはたいて服を上から下まですべて新調した。
冬のあいだの不摂生で少し増えてしまっていた体重を頑張って落とした。
いつもは十分足らずで終わらせてしまうメイクに一時間以上かけた。
朝からわざわざ美容院に行って髪のセットをしてもらった。
会社の同僚がもう使わないからとくれた、男をその気にさせるだか何だかの香水だってつけてみた。
どの角度が一番かわいく見えるか鏡の前で研究しまくった。
──まさき君、久しぶり。私のこと、覚えてる? 今、どんな仕事してるの?
──まさき君、久しぶり。元気だった? すごく大人っぽくなったね。
──まさき君、久しぶり。あのね、この前観た映画がすごく面白くてね、まさき君はどんなの観るの?
妄想まじりの会話シミュレーションなんて何十回したことか。
まさき君、あのね。
──話したいことがたくさん、あるんだ。
私は鏡の中の彼女と額をくっつけ合うと、そっと呟いた。
「……たくさん、あったんだ」