第6章 海の底

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 唸るような風の音で目が覚めた。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。視界はずい分と暗くなっていた。ゆっくりと首を巡らせると、頭の下でじゃりじゃりと砂が動く音がした。そして美月は吐息と共に感嘆の声を上げる。
 目の前に広がるのは一面の、赤。
 炎のような太陽が、今まさにその身を海原の向こうに沈めようとしているところだった。砂浜も波立つ海も雲も、何もかもが燃えている。──それはまるで、世界の終わりのようで。
 きれい。呟いた声はあっという間に風にさらわれた。風に煽られた髪が容赦なく頬を叩く。邪魔だなあ、とぼんやりと思う。が、痺れた指先はぴくりとも動かなかった。
 美月は打ち付ける波の音を聞きながら、あのときのことを思い返していた。
 その瞬間のことはよく覚えていない。「解離性健忘」というらしい。今もその部分の、正確にはその日の記憶はすとん、ときれいさっぱり抜け落ちたままだ。
 目を覚ましたのは病室のベッドの上だった。
 傍には諒子と、それから美優がいた。美優の目は真っ赤に充血していて、目が合うと、彼女の目からはぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
 起き上がろうとした美月を、諒子の手ががやんわりと押し留めた。
「無理しないで、まだ傷が」
 諒子の言葉に、改めて自分の身体を検分する。腕や脚、それから頭に胴体、肌が出ているところを探すほうが難しいほど、ほとんどの部分に包帯が巻かれていた。
 痛みは遅れてやってきた。身じろぎするだけで全身至るところに激痛が走った。なかでもとりわけ痛みの度合いが強かったのは下腹部あたりだった。
 記憶にはないが、自分の身に何か良からぬことが起きたことは分かった。
「私、どうしたの?」
 どうにか押し出した声はひどく遠く、自分のものではないように感じた。
「手術、したの。お腹にひどい怪我をして」
 諒子の声もまたひどく聞き取りづらかったが、今はそんなことはどうでもよかった。ベッドの半ばほどまでひかれたカーテンの向こう側を窺うが、そこに人の気配はない。娘の一大事には何を差し置いても駆けつけるであろう人たちの、誰よりもそばについていてほしい人たちの姿が見当たらない。
「ねえ、お父さんとお母さんは?」
 諒子に向かって尋ねたその瞬間だった。反応はべつのところからきた。美優がわっと声を上げ、両手で顔を覆った。今までに聞いたこともないような声を上げ、咽び泣く友人の姿に悪い予感は一気に膨れ上がった。
 一旦、美優を病室の外へと連れ出すために席を外した諒子は、戻ってくるとベッド脇にしゃがみ込んだ。美月の手を握った諒子の手は、かすかに震えていた。
 落ち着いて聞いて。
 その声もまたひどく震えていたが、諒子は最後まで涙を見せなかった。
 また、悲しませてしまう。
 押し出した言葉は冷たい砂の上に落ちた。 

 お姉ちゃん、ごめんね。

 諒子はハッと顔を上げた。
 転がるようにして玄関から外へと飛び出す。が、そこにはただ冷え切った廊下が横たわるだけだった。はあ、とため息をつき、部屋へ戻る。
 携帯を確認するが着信はない。履歴から美月の携帯を呼び出す。もう何度目になるか分からない。コール音が空しく響き渡るだけで応答はなかった。
 諒子は再び、ソファに腰を下ろした。 
 もうずっと身体の震えが止まらない。少しでも気を抜くと、恐怖のままに叫びだしてしまいそうだった。唇を強く噛みしめる。口のなかに鉄錆の味が広がった。
 神など信じない。酔って怒鳴り散らす父親から隠れながら、あるいは寒空の下、空腹を抱えながら幾度となく祈った。だが、救いは来なかった。この世に神など居はしないのだ。
 だから頼んだ。
 唯一、救いの手を伸ばしてくれたあの人たちへ。
 どうか。
 どうかお願いだから、あの子まで連れて行かないで。
 そのとき、電話が鳴った。                             

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