第6章 海の底

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 とくにどこか行きたい場所があったわけじゃない。
 ただ、どこかへ行ってしまいたかった。
 ここではない、どこか遠くへ。

 海沿いの道は信号がほとんどなく、アクセルはほぼ踏みっ放しだ。先行車両がいないことをいいことに法定速度はかなりオーバーしている。すでにヘッドライトが要る時刻になっていた。次第に濃くなる闇に、焦燥感は否が応でも掻き立てられる。
 結局、正親から有益な情報を得ることはできなかった。もしかしたら、と美月の生家と、彼女の両親の眠る墓所へ出向いた諒子からも、美月が立ち寄った形跡はないという連絡がきた。完全に手詰まり状態となっていたところにかかってきた電話は麻衣からだった。
『待ち合わせしてたんだけどすれ違ったみたい。おまけにケータイも繋がんないよ〜。誰か、美月見かけた人いないかな? いたら教えて〜』
 軽いノリを装いSNSで呼びかけたところ、べつのクラスの友人から反応があったらしい。一時間ほど前、駅で美月を見かけたというものだ。
 ねえ、先生、美月、どこに行くつもりかな? なんか悪い予感がする。ねえ、先生、先生どうしよう。もしも、もしも美月に何かあったら私……!
 電話の向こうから聞こえる今にも泣きだしそうな声に、いつかの声が重なる。
(先生、お願い。美月をたすけて)
 あの時は、その言葉に頷くことはできなかった。応じてやることはできなかった。自分にそんな資格はないと思っていた。
 けど、ちがう。それは単なる言い訳にすぎない。
 ──あいつの、言う通りだな。
 俺はただ、逃げていただけだ。
「必ず、助ける」 
 雅哉は呟き、アクセルをめいっぱい踏み込んだ。

 美月が乗ったと思われる電車はローカル線の快速列車で、停車駅はある程度絞られる。雅哉はとりあえずそこをしらみつぶしにあたることにした。沿線沿いに車を走らせ、それらの駅に片っ端から車で乗りつけるという戦法だ。
 だが、三駅空振ったところで焦りは最高潮に達した。垂らされた糸はあまりに頼りなく、それを掴み続けることへの疑問さえ湧き上がってきた、そんな時だった。
 聞き覚えのある歌が耳に飛び込んできた。一時期はラジオやテレビなどで耳にしない日はないほどのヒットチャート常連だった曲だ。振り返った雅哉の視線の先にいたのは、少女と母親の親子連れだった。
「ゆうちゃん、お歌上手だねー」
「へへー。お姉ちゃんも上手だねーって褒めてくれたよ」
 ほとんど反射的に駆け寄っていた。すみません、と声を掛ける。母親の方が警戒したのが分かったが、構わず「人を探してるんです」と、携帯の液晶画面を見せた。表示させたのは、麻衣に送ってもらった写真だ。美月と麻衣、二人が写っている。
「この子なんですけど」
 あ、と先に反応したのは歌をうたっていた少女のほうだ。小学校低学年くらいだろうか。少女の目線の高さに携帯を持っていく。少女が声を上げた。
「見て、ママ。さっきのお姉ちゃん!」
 糸が、繋がった。


 ずっと、考えていた。
 どこで間違えたのかと。どこからだったのかと。
 呼び名を「綾瀬のおじちゃん」から「お父さん」に変えるのには多少の期間を要した。同じく「お母さん」と美優の母親を呼ぶことにも。
 それでも彼らはとてもやさしかった。美月が一刻もはやく「綾瀬」の一員になれるよう心を砕き、慮ってくれているのが分かった。だから、美月もまた新しい家族に馴染もうと必死だった。
 だが、ひずみはきっとそこかしこに生じていたのだ。やがて、噛み合わなくなった歯車はぎしぎしと不快な音を立て始めていた。
 ──何なのよ、あれ。最近のお父さん、口を開けば美月美月ってさ。
 ──あっちのほうが出来がいいもんね。私なんかよりよっぽどさ。
 ──いやよ私、ここがいい。どこにも行きたくない! だって皆と約束したのに。皆と同じ高校に行くって約束したのに!
 決定打は、高校進学のときだったように思う。
 高校受験を数か月後に控えたある日、父が隣の市に居を移すと言いだした。環境のいい場所に住みたい、というのが建前だということはもちろん分かっていた。
 その頃、美月が綾瀬の家に引き取られたことに関して、あまり耳触りのよくない噂がたっていた。近所だけではなく、学校内でも。
 もちろん美月も反対した。意見したのは初めてのことだった。自分のことは気にしないでほしいと。
 だが、父は家はもうすでに購入したと言った。その時点で転居は決定事項となった。
 ──美月のため美月のためって、いつもいつもいつも! じゃあ私はいったい何なのよ! あんたらの何だっていうのよ!

 おまえを、愛している。

 そう父に言われたとき、脳裏に浮かんだのは美優の顔だった。
(ねえ、美月ちゃん。あのね、私ね、大きくなったらお父さんと結婚するんだ。でもね、内緒だよ。このことは二人だけの秘密ね)
 ずっと考えていた。どこで、間違えたのか。
 けど、そうじゃなかった。
 どこで、ではなかった。はじめから、だったのだ。
 私があの家族を壊してしまった。
 私が。                             

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