第6章 海の底

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 ここに来るのは二度目だ。
 あの時はたしか、雨が降っていた。
 チャイムを二度鳴らし、反応がないためさらにもう一度、と手を伸ばしたところでインターフォンが繋がった。セールスか何かと勘違いされたのか、不審げな声が「はい?」と応答する。
「進藤です」
 インターフォン越しに名乗ると、すぐに扉が開いた。断りを入れ、玄関内に入れてもらう。
「先生、先日は大変お世話になりました」
 そう言って深々と腰を折り礼を述べた美月の父、いや養父である正親が顔を上げるのを待って、尋ねた。
「美月さんは?」 
「はい?」 
「こちらに戻って来てるんじゃないですか?」
「……いや、あの?」 
「諒子さんから連絡が来たんです。美月さんが病院へ行くと言って出て行ったきり、帰って来ないと。携帯も繋がらないそうです。彼女が姿を消した理由に何か心当たりがあるんじゃないですか?」 
 雅哉は注意深く男の顔を観察する。眉の動きひとつ見逃すことがないよう。なんせ警察署ではプロ真っ青の役者っぷりを披露してくれた相手だ。
「ちょ、待ってください。美月が姿を消したと? それに心当たりってそれは一体どういう、」
「しらばっくれんな」
 思わず口を衝いて出た雅哉の言葉に、正親が目を剥く。
「こっちは全部知ってんだよ」
 不穏な気配を感じ取ったのか、正親は一歩、後ろへと下がった。
「知ってるって一体なにを」
「あんたが彼女に、仮にも『娘』であるはずの彼女に何をしたかだよ」
 息を呑み、怯んだようにさらに後ずさった正親は「美月が、言ったのか」と。その声に、僅かながらも咎めるような色を見た雅哉は、鼓膜の奥で何かがぶつりと引き千切れるような音を聞いた。
 あの日、美月は何も言わなかった。
 頑なに貫いた沈黙は、誰のためであったか。
 おそらくそれは自分のためではない。ましてや正親のためでも。
 それはきっと、あのとき、あの場にはいなかった誰か。
 正親の娘である美優と、正親の妻である母親のため。
 なのに。それなのに、あんたが責めるのか。必死にあんたの家族を守ろうとした彼女を、その元凶であるあんたが責めるっていうのか。
 反射的に逃げようとした正親の襟元をぐい、と掴んだ。手首を捻り、そのまま締め上げる。
「もう一度だけ訊く。彼女を、どこへ、やった?」
 ゆっくりと、噛んで含めるようにして言うと、正親は苦しげな息の下で応えた。
「ま、まだ、ここへは帰って来ていない」
「まだ? ってことは帰って来る予定があったってことか?」
「……ああ。きっと帰ってくる」
 正親は頬を歪めるようにして笑みを浮かべた。妙に確信めいた言い方に引っかかりを覚える。  
「彼女に何を、言った?」
 衿元を掴んだ手に力を籠める。正親はぐっと喉を鳴らした。
「言え」
「……あ、あの女、に、……これ以上、迷惑、かけるつもりか、と。やっと店が軌道に、のってきた……ところだろう、って」
 目の前が、赤く染まった。
「くそが!」  
 怒りのままに、正親の喉に押し当てていた拳を叩きつけるようにしてその身体を突き飛ばした。堪え切れず廊下に尻餅をついた正親は、一気に流れ込んだ酸素にむせるように、げほげほと激しく咳き込んだ。
 あの女に(おそらく諒子のことだろう)これ以上迷惑をかけるつもりか。──要するに脅しをかけたのだ。
「一体、どこまであの子を追い詰めれば」
「追い詰める? 何を言ってる」
 正親は首元を押さえながら、嘲笑した。
「私こそがあの子を救おうとしているというのに。あの子の母親はしょうもない男と結婚したばかりに苦労し通しだった。挙句の果てには、あんな惨めったらしい死に方を。私と一緒になってさえいれば。家族の反対を押し切ってでもそうすべきだったと 悔やんでも悔やみきれない。だからこそ、だからこそ今度こそは。あの子にはそんな思いなどさせるものか。私ならあの子を幸せにしてやれる。あの子には私が必要なんだ。娘なんかじゃない。私はあの子を──愛してる」
「いい加減にしろ!」
 半ば、どこか虚ろに彷徨わせていた正親の視線がこちらを向いた。
「それはあんたと彼女の母親との問題だろうが。そこに彼女を巻き込むな。あんたの人生に彼女を巻き込むんじゃねえよ! 愛してる? 幸せにしてやれる? 笑わせるな! それは彼女が決めることだ。彼女自身が選んで決めることだ。あんたが決めることじゃない!」
 目が眩むほどの怒りに我を忘れた。
「あんたのそれは愛情なんかじゃねーよ。あんたのそれはな、重たくって暑苦しい、単なる愛情の押し付けなんだよ!」 
 身体中の血液がぐらぐらと沸騰しているような気がした。自分はどちらかというと感情の振り幅はそれほど広くはないと思っていた。だが、いまや針は完全に振り切れていた。
 初めてだ。他人に対してこれほどの怒りを覚えたのは。
 ──何故か?
 
 理由なんて、
 理由なんてそんなの、
 もうとっくに分かってる。                             

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