第6章 海の底
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先生、日誌持ってきました。
その声に、聞き覚えがあるような気がした。
上げた視線の先にいたのは、眼鏡をかけた真面目そうな女子生徒だった。
ああ、ありがとう。そこに置いといてくれ。
まさかな。そう思いながら生徒名簿をめくる。名前は綾瀬美月。
誕生日、四月一日。
ま、そうだよな、と乾いた笑いが漏れる。
クラスに一人はいる優等生タイプ。
どちらかというとあまり目立たない部類の、生徒。
それが、彼女の第一印象だった。
「綾瀬のおじちゃん」と「綾瀬のおばちゃん」、それから「美優ちゃん」は美月が物心ついたときにはすでに身近な存在であった。
綾瀬のおばちゃん──美優の母親は美月の母の小学校時代からの幼馴染である。小・中・高と同じ学校へ通い、青春時代をともに過ごした二人は、お互いがお互いを「唯一無二の親友」だと言っていた。
母が結婚したのとほぼ時を同じくして美優の母もまた結婚し、妊娠時期もあまり変わらなかった。さらには子供の性別まで同じであることが判明した際には親友同士、手を取り合い喜び、そして大いに盛り上がったらしい。
美月と美優。姉妹でもない二人が似たような名前になったのは偶然でも何でもなく、母親二人の話し合いの結果である。
まるで双子の姉妹みたいね。
それは母たちの口癖であった。
だって私たち双子だもんね。
いつしか二人の口癖となっていた。
ずっと一緒だった。生まれたときからずっと。
父と母、それから妹。
幸せだった。
幸福という名の日常。それはまるで雪のようにやわらかく降り積もり。
今日も、明日も、その先もずっと降り続けていくものだと、変わらないものだと思っていた。
なのに。
きれいに、なくなった。
これを見ていただけますか。諒子がパスケースから大事そうに取り出したものを受け取る。一枚の写真だった。そこには満開の桜をバックに映る、三人の姿があった。髪の色が今よりずいぶんと明るいせいで少し印象が違っているものの、一人は諒子だ。そして残るふたりは、
「美月と、美月の実の母親です」
聞かずとも分かった。
年齢的には今現在の美月よりはるか上には違いないものの、生き写しといってもいいくらい彼女によく似た女性。そしてその女性の肩に頭をもたせかけた少女。
中学生くらいだろうか。顔にはまだあどけなさが残っている。今より少し短い髪は、肩のラインで切り揃えられている。
「トンネル内での多重事故に巻き込まれたんです。死傷者を多数出した大きな事故でした。両親はほぼ即死だったそうです。後部座席にいた美月は辛うじて命を取り留めました。とはいえ、手術を要するような重傷で」
すぐそこにあった雅哉の肩がかすかに揺れる。だが、彼が言葉を発することはなかった。彼はさっきからずっと押し黙ったままだ。
当時のことを思い起こしてのことだろう。諒子は声を震わせ、同じように震える両の手をぎゅっと握り合わせた。
「一週間近く意識が戻らなかったんです。けど、ようやく目を覚ましたあの子を待っていたのは、さらに残酷な現実でした」
諒子は懺悔するように握った手に額を押し当て、呻くように言ったあと、ゆっくりと顔を上げた。
「美月には引き取り手になるような親戚筋はいませんでした。たった一人残された美月を引き取ることは綾瀬氏が決めたそうです。親類中の大反対を押し切り、話を進めたと聞きました。綾瀬家というのはあの辺りではかなり名の知れた名士で、しかも本家の長男ということで、そんな縁もゆかりもない子を引き取るなんて、と相当揉めに揉めたとか。結局、親類の同意を得られないまま、綾瀬氏はことを運んだそうです」
美月には悪いが、周囲の反応は至極当然のことと思われた。いくら妻の親友の忘れ形見だとはいえ、血の繋がりの全くない、いわば赤の他人の子供を引き取るなど。
どうしてそうまでして?
里佳がその疑問を口にすると、諒子はかすかに鼻に皺を寄せ、言った。
「綾瀬氏と美月の母親は元々、旧知の仲だったようです。家が近所で、所謂、幼馴染というか。綾瀬氏と奥さんとの出会いも、美月の母親づてだったとか」
里佳と雅哉、そして諒子が連れ立って彼女の店を出たのは、それから一時間後のことだった。店の入り口に鍵をかけ、さらに扉を引っ張りちゃんと鍵がかかっているかどうか確認したのち、諒子は振り返った。
「向こうとの話が済み次第、そちらに伺います。すみませんが、それまでもう少しだけあの子のことをよろしくお願いします」
美月を自分の家に連れて帰ると諒子は言った。
私、あの子の両親に救われたんです。親に捨てられたも同然の生活をしていた私に唯一手を差し伸べてくれたのが彼らでした。彼らがいなかったらきっと今の私はなかったと思います。だから、
いえ。だから今度は自分が、とか、そういうことじゃなくて。
私はただ、あの子に幸せになってほしいんです。
笑って、ほしいんです。
あの頃のように。
美月が姿を消したと聞いたのは、その二日後のことだった。
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