第6章 海の底

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 彼女の言葉に一切の迷いはなかった。
 がたん、と隣で大きな音がし、視線を移す。思わずといった感じで立ち上がった雅哉は驚愕に目を見開いていた。
 ふと、彼の目の下の濃い影に目がいく。きっと昨夜はほとんど寝ていないにちがいない。朝になるのを待って掛けた里佳の電話に、雅哉はワンコール待たずして出た。
「一体、なにを言って。だっておまえ、そんな……そんなこと、」
 混乱を極める雅哉にとりあえず座るよう促す。驚くのも無理はない。彼にはまだ何も話していなかったのだから。
 まずは自分がその結論に至った経緯を話すことにする。
「きのう、彼女、あなたに激しい拒否反応を示したでしょ? 彼女を連れて帰るのに、それを理由にもした。父親も同じ『男』だから、彼女は彼に対しても恐怖心を抱いてるからって。だけどね、ちがうの。彼女があの部屋であなたの手を振り払った時とは全然、……違ったのよ」
 父親が姿を現した瞬間、彼女の瞳に浮かんだのは恐怖と怯え、それから──絶望。
 自分を心配して駆けつけてきたはずの父親を、彼女の手が抱き返すことはなかった。両脇に下ろされたままの腕は、ずっと震えていた。
「父親の手の甲に傷があったの。ついさっき何かに引っ掻かれたような生々しい傷」
 確証があったわけではない。だが、里佳にはそれにもまた見覚えがあった。
 かつて、自分を襲った男の腕にも同じような傷があった。それは襲われた側の精一杯の抵抗の証。里佳はそのとき自分がとった行動をほとんど覚えていない。きっと無意識に爪をたてていたのだろう。あとで見ると、何本か爪が折れていた。
 男は抵抗され、自分の身を傷つけられたことに対して理不尽にも里佳を詰ったが、そんな痛みがなんだというのだ。あのとき里佳は、身体も、心も、めった刺しにされたのだ。痛かった。痛くて痛くて、死んだほうがマシだとさえ思った。

 そして傍らで、あのときの自分と同じように傷口から血を流す彼女を放っておくことはできなかった。
 彼女は頑なだった。が、里佳は時間をかけ、彼女を覆うものを一枚一枚、根気強く剥がしていった。
 やがて彼女はそのときのことを語りだした。
 淡々と、まるで原稿でも読むかのようにして。

 里佳さんと先生と別れたあと、まっすぐ家に帰りました。家に帰ると電気が点いてていました。おかしいと思いました。だって留守電に母からメッセージが入ってたんです。祖母が倒れたので実家へ帰ることになったというメッセージが。
 父も仕事が終わり次第向こうへ行く、という話でした。
 だから家には誰にもいないはずで、慌てていたために電気を消し忘れたんだろうと結論づけました。だけど、鍵を開けると玄関に父の靴がありました。いるはずのない父が、とうに新幹線に乗ってるはずの父がなぜかいたんです。驚く私に父は言いました。雪のせいで新幹線が止まって、それで家に帰ってきたと。
 私、チャンスだと思いました。ずっと父に話したいことがあったんです。話をしないといけないと思っていたことがあったんです。だからこれはちょうどいい機会だと思いました。
 進学するつもりはない、とそう父に言ったんです。高校を卒業したら家を出るつもりだと。自立をしたい、と。反対されるだろうとは思っていました。当然、父も、それから母も進学を望んでましたから。というより、それが当然のことだと思っていましたから。
 父は笑いました。どうやって生活していくつもりだと。
 私は言いました。働くつもりだと。とにかくこれ以上もう、この家にいることはできない、と。
 そしたら、
 そしたら父が突然──…

「父親に乱暴されたっていう、そんな最低最悪な状況でこんな台詞を吐くのも嫌なんですけど、ほんと、それのどこがって状況なんですけど、幸いなことに未遂、だったらしいです。取るものも取り敢えず家を飛び出して、けど帰ることも叶わず途方に暮れているところを警察に保護されたって」
「……そんな、そんなことって。仮にも父親だろうが!」
 テーブルを叩きつけた勢いのまま雅哉は叫んだ。はずみで大きく波打ったコーヒーが零れ、ソーサーを濡らした。が、
「父親ではないんです」
 諒子は視線をテーブルの上に注いだまま、言った。
「彼女とあの人に、血の繋がりはありません」
「……どういう、ことですか?」
 まだ興奮の色を帯びたままの雅哉の声が尋ねる。
「美月はあの家の誰とも血が繋がっていません」
「ちょっと待ってください。だってそんな、彼女と妹の美優は双子で、誕生日だって、」
「……誕生日」
 ゆっくりと顔を上げた諒子が乾いた声で呟く。
「四月一日ですよね? 名簿では、そうなっていました」
 雅哉の問いに、諒子はゆるゆると首を振った。
「それは美優ちゃんの誕生日だと思います。あと一日遅かったら学年が違っていた、とたしかそんなことを言ってましたから」
「じゃあ、美月のほうの誕生日は」 
 やけに緊張した面持ちで雅哉が言った。
 なぜ彼女の誕生日にそれほどまでにこだわるのか。里佳は内心、首を傾げる。 
 身を乗り出すようにして諒子の返答を待っていた雅哉は、やがて与えられた彼女の答えに息を呑み、そして深く、とても深く息を吐きだした。                             

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