第6章 海の底

-01-

「お店、よかったんですか」
 里佳が声をかけると、店主である神崎諒子がカウンターのなかから、「ええ」と返した。店内にはコーヒーのいい香りが漂っている。
 きのうの夜、美月からやっとの思いで聞きだしたのは彼女の電話番号だった。
 美月は携帯を所持していなかったが、幸いなことに諒子の電話番号を暗記していた。それだけではない。美月は主だった電話番号は全て記憶しているという。
 里佳は自分の携帯番号と職場の番号くらいはそらで言えるが、その他の番号に関してはからっきしだ。恋人である冬吾の番号でさえあやしい。反省しきりだ。
 電話では憚られるので、と諒子に詳細は何も話していなかった。自分の身元と、とある事情で美月を預かることになった旨と、それから美月について相談したいことがある、とだけ。諒子はすぐに時間を作ってくれた。
 姉のように慕っている人だと、美月は諒子との関係性についてそのように言った。誰よりも身近な存在で、信頼足り得る人だと。なのにその人の連絡先を言い渋った理由がここにきてようやく分かった。きっと迷惑を、かけたくなかったのだろう。
 時刻は一時を回ったところでちょうど昼時である。表にかけられた「準備中」の札を見ては引き返していく客と思しき人間がさっきからひっきりなしだ。なかなかに繁盛している店のようだ。
「たまにはいいんです。一応の定休日はあるんですけど、貸し切りの予約が入れば店を開けるので、ここのところずっと休みなしでしたし。だからスタッフの皆も思わぬ臨時休業に喜んでるくらいで」
 看板には「カフェ&バー」とあった。昼はランチメニューを、夜は主には酒を提供する店のようだ。それほど広くはないが、なかなかにいい雰囲気だ。
「自分の店を持つことが長年の夢だったんです」
 そう言って諒子は愛おしそうに目を細め、店内をぐるりと見回した。年は自分たちより少し上、くらいだろうか。その年で自分の店を構えるということの苦労たるや、察するに余りある。
 里佳と雅哉は店のいちばん奥のテーブル席に座っていた。諒子はどうぞ、とコーヒーをテーブルに置くと、おもむろに深々と頭を下げた。ゆるくウェーブのかかった長い髪がゆらりと揺れる。  
「美月が、たいへんお世話になりました」
「あの、どうぞ頭を上げてください」
 里佳と雅哉は慌てて立ちあがる。それでも諒子はゆうに一分は頭を下げ続けた。
「電話でお話したとおり、今、美月さんは私の家にいます。昨夜、美月さんは暴漢に襲われました。いえ、襲われたのではないかということで、巡回中の警察官に保護されたんです」
 諒子の固く引き結ばれていた唇が震えながらゆっくりと開く。
「きのうの夜、美月、ここに来てたんです。スタッフの皆にクリスマスケーキの差し入れをしてくれて。おまけに忙しそうだからって、手伝いまでしてくれて」
「あの、もしかして彼女、ここで働いていたんですか?」
 雅哉の問いに、諒子は躊躇いがちに頷いた。
「一年くらい前から店を手伝ってもらってました。あの、でも勉学に差し支えない程度に、という約束で」
 たしか雅哉の今いる学校は、生徒のアルバイトは禁止されていたはずだ。諒子もまたそのことを知っているのだろう。すみません、と諒子は雅哉に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
 里佳はことの顛末を説明し始めた。
「彼女の所持品に彼、進藤の携帯番号を書いた紙があって、警察から電話連絡を受けました。私はたまたまその場に居合わせたので同行しました。彼女は自分で転んだと言い張ってましたので、今のところ被害届等は出してません」
「あの、美月はいつ? やはりここからの帰り、でしょうか? 本当に転んだという可能性は?」
 縋るような諒子の問いに胸が痛んだが、里佳は「否」と返すしかない。
「まず転んだという可能性は低いと思います。怪我の具合から見ても」
「怪我を、してるんですか。それはどの程度の」
 諒子の顔がみるみるうちに青ざめていく。
「いえ、あの、そこまで重傷というわけでは」
 だが、軽傷とも言えない。何より彼女が心に負った傷は計り知れない。
「警察もバカじゃないので、彼女が嘘をついていることは分かっていると思います。ただ、こういったケースは非常にデリケートな問題で、親告罪なので本人が訴えない限り、警察側も事件にすることも動くこともできないので」
 里佳はひと息つき、コーヒーに口をつけた。砂糖を入れ忘れていたことに気がつくが、かまわずそのまま飲んだ。苦味にじんわりと舌が痺れていく。
「それで、警察からの連絡がどうしてこちらにきたかというと、彼女が頑なに家への連絡を拒んだからなんです。なので彼の連絡先が偶然、彼女のコートのポケットに入っていたのは不幸中の幸いでした」
「いえ、俺が悪いんです」 
 雅哉の声が割って入った。
「偶然、彼女と会ったんです。そのときにちゃんと彼女を家まで送り届けていれば」
「終わったことをぐだぐだ言ったって仕方ないでしょ。それに、」
 里佳は雅哉の言葉を一蹴し、その先の言葉は呑み込んだ。
 それに、送り届けていたところで。
 里佳はさらに話を続ける。
「あとから分かったことですが、美月さんの祖母にあたる方が倒れられたらしく、お母様と妹さんはそちらに行かれて不在ということでした。それで、本当なら父親もいっしょに行っているはずだったらしいんですが、雪のせいで新幹線が止まったらしく、迎えに来られたんです、その父親が。けれど、私は理由をつけて自分の家に彼女を連れて帰りました」
 黙って里佳の話に耳を傾ける諒子を見ながら、里佳はひとつの可能性に思い至る。というより、彼女を見たときから何となくそんな気がしていた。
 おそらく、彼女はすべて知っている、と。
「私にとって美月さんは、友人である進藤の生徒さんとはいえ、言うなれば完全に赤の他人です。けれど、あのとき、私は口を出さずにはいられませんでした」
 里佳は大きく息を吸い、そして言った。
「どうしてだと思います?」
 諒子の視線がまっすぐに里佳をとらえた。 
「どうして私がかなり苦しい理由づけをしてまで彼女を自分の家へ連れ帰ったのか。どうして彼女はそうまでして家への連絡を拒んだのか。あなたはもしかしてそれらの理由に心当たりがあるんじゃないですか?」
 一度手元に落とされた諒子の視線がゆっくりと上がる。彼女の目には、何かしらの覚悟のようなものが見えた。
 そして諒子は言った。
「美月を襲ったのがあの子の父親、だからですか」                             

ランキングに参加してます。
inserted by FC2 system