第5章 白い足あと

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「どう? 少しは落ち着いた?」
 三本目を吸い終わったところで部屋に戻ると、ちょうど美月が風呂から上がったところだった。
「はい。ありがとうございます。お風呂、お先にいただきました。そらから着替えも、ありがとうございました」
「あー、うん、いいよいいよ、気にしないで。それよりほっぺた、まだ少し赤いね。何か冷やすもの持ってこようか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「じゃあ、何か飲む? ビール、ってわけにはいかないわね。紅茶くらいしかないけど。ストレートとミルクティとレモンティ、どれがいい?」
 美月は一瞬考える素振りをし、「じゃあ、ストレートで」と言った。
「紅茶、好きなんですか?」
 ソファに腰掛けた美月がマグカップを受け取りながら、言った。 
 里佳は「うん、まあ」と答え、だが、何かが引っかかり「どうして?」と訊いてみる。
「……いえ、あの」
 俯いた彼女の肩から、まだすこし濡れたままの髪がすべり落ちた。
「以前、先生の家に皆でお邪魔したときに、たぶんこれと同じものを出して頂いたので、その、」
「あー、ああ!」
 思わず大きな声を出してしまい、美月が目を見開く。ごめんごめん、と驚かせてしまったことを詫び、里佳は美月の隣に座った。
「だーかーらー、さっきあそこでも言ったでしょ。私と雅哉はそういうんじゃないって。ヤツとはね、大学時代からの友人なんだ」
「いえ、べつに私、そんなんじゃ全然なくて」
 美月が慌てたように言う。
 そんなこと自分には関係ない。あくまでその姿勢を崩そうとしない美月に、里佳は内心、素直じゃないなあ、とため息をつく。
 まったくどいつもこいつも本当に。
「私ね、好きな人がいるんだ」
 里佳はひらりと美月の前に左手を掲げて見せた。薬指につけているのは、付き合って初めての誕生日にプレゼントされた、小さな石のはまったシルバーリング。
 それほど高いものでなかったことを気にしてか、新しいの買ってやる、と何かにつけて言ってくるのだが、指によく馴染んで気に入っているこれを外すつもりは今のところない。
「彼と雅哉と私、同じ大学の同じサークルでね、未だに三人でよくつるんでるの。休みの日はたいてい誰かの家に入り浸ってる。まあさすがに今日くらいは、って二人きりで食事に行くつもりだったんだけど、私の彼氏、あ、冬吾っていうんだけど、冬吾が急な仕事でドタキャンしやがってさ。それで雅哉付き合わせてヤケ酒ってわけ」 
 美月は「そうだったんですか」と無難な返事を寄越したが、その顔には明らかなる安堵の色があった。
「私が知る限りじゃ、ここ数年、ヤツに浮いた話はないよ。学生時代の色恋沙汰で懲りたみたいでさ、なんかそういうのはもういーわ、ってね」
「……色恋沙汰」
「あ、べつに修羅場とかそういうんじゃなくてさ。うーん、なんていうか、あいつってまあ、やさしいじゃん? おまけにあのルックスでしょ。当然ながら引く手あまたでさ。あまり自分からいくタイプじゃないんだけど、わりと来るもの拒まずでさ。けど、大抵すぐに振られるんだよね。どうせ私のことそんなに好きじゃないんでしょ、ってね。とはいえ、女の場合はさ、そういう台詞は駆け引きだったりもするんだけど、雅哉は去る者追わずなとこもあるから、引きとめるでもなく、それならじゃあ、まあ別れようかってあっさり引くもんだから、なにそれひどいってビンタくらったこともあってさ。なんかそういうとこはすごく冷めてんだよね、あいつ」
 ふと気がつくと、美月はやけに神妙な顔をして話を聞いていた。
「あ、でもね、あなたに関しては、」
「あの!」
 美月の突然の大声に今度は里佳が驚く番だった。美月は恥ずかしそうに俯き、すこしトーンを下げて、言葉を継いだ。
「里佳さんは、どうして私のこと? だって私、初対面なのにこんな。こんなふうによくしてもらう理由なんかないのに。……私が先生の教え子、だからですか?」
 里佳はソファ横に置いておいたバッグから名刺を取り出し、美月に渡した。美月は名刺に書かれた里佳の肩書を読み上げる。
「心理、カウンセラー?」
「うん、そう。今はおもに企業向けでやってる。一時期はスクールカウンセラーとして学校に行ってたこともあるんだ」
「あ、それがもしかして、さっき言ってた先生の同僚だっていう?」
「そうそう、偶然、職場が被ったことあるんだよね。ほんの一時期だけだけど。ごめんね、あんな言い方して。じつは内心、びくびくだったんだよね。あなたにあの場で『違う』って言われたら一発だったからさ」
 あそこで身分を明かさなかったのは、へんに警戒されたら、という懸念があったからだ。自分が何かに勘付いているのでは、と悟られてしまったら終わりだ。
「……けど、だから、ですか? だから私のこと?」
「うーん、半分はね。職業柄気になったっていうからほっとけないっていうのも、あなたが雅哉の生徒だからっていうのもあったけど。けどまあ残りの半分は、」
 里佳は天井に視線を投げ上げた。思い出すとまだ痛い。が、あれはもう過去のこと、と切り捨てた部分だ。視線を戻し、美月を見た。そして、
「私ね、レイプされたことがあるの」
 美月の瞳が大きく揺らいだ。
「だからね、なんか他人事じゃないっていうか」
 あ、と言って美月は顔を引き攣らせた。
「でも、私はそういうんじゃなくて。ただ、道路で、雪のせいで転んでしまって」
 あくまでそのシナリオを通すつもりらしい。彼女は思った以上に頑固だった。だが、里佳とて、ここでひくわけにはいかないのだ。
「うん、でもね、痛いでしょ?」
 美月は自分の頬に手を持っていく。里佳は「ううん、ちがう」と、首を振った。
「ここ、痛いでしょ」
 とん、と指先で彼女の胸をつく。
「もうずっと長いこと、痛いでしょ。もうさ、いっぱいいっぱいになってるんじゃない? ちがう?」
 里佳の言葉に美月は、くしゃっと顔を歪めた。一瞬、泣くのかと思った。けれど、彼女は泣かなかった。
 美月は保護されてからずっと嘔吐し続けているという。きっともう、どうにもならなくなっているのだ。何もかも、抱え込み過ぎて。
 里佳は手を伸ばし、美月の身体をそっと引き寄せた。
 抱いてみると、彼女の身体は想像以上に細く、そして頼りなかった。
「私の場合はさ、相手が元カレだったんだよね」
 元カレねえ。じゃあ、同意って可能性もあるよねえ? 焼けぼっくいに火がついた、とかじゃないの? 訴えるっつったって時間の無駄だと思うんだけどねー。
「警察行っていろんなこと訊かれてさ。じつは誘ったんじゃないかとか、あんたにも隙があったんじゃないかとか。そんな下らない質問ばっかり。ふざけんな、って殴ってやろうかと思ったわよ」
 ほんとに殴ってやればよかった。
 めんどくさそうに調書を取っていたあの警察官も、自分の浮気が原因で別れたのにヨリ戻そうって言ってきたクソ男も。どうせなら、殴ってやればよかった。
 里佳は身体を離し、そっと美月の手をとった。女である自分の手でもすっぽりと覆えてしまうくらいちいさな、とても小さな手だ。
「たとえどんな状況だったとしても、あなたに非はないの。絶対に」 
 それだけは里佳がどうしても伝えたかったことだった。
「どうしてあなたがあの場で何も言わなかったのか。その理由に私はたぶん、心当たりがある」
 そう言うと、美月の肩はびくりと震えた。
「あの場で言わなかったのは懸命だったと思う。あなたの判断は正しかった。残念ながら言ったところで、さらに傷を深くするだけだったと思うから。けどね、だからといってそのままにしておいていい問題じゃないと思う」
 美月は何も言わない。だが、握った手から伝わる震えは次第に大きくなっていた。
「しんどかったら誰かに縋ったっていいの。誰かに寄り掛かったっていいの。助けて、ってちゃんと声を出しなさい。──皆、待ってるのよ。あなたがそうやって声を上げてくれるのを」


                              第5章 了

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