第5章 白い足あと
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「女の子を保護してるって電話だったの」
信号が赤から青に変わる。人の流れに押されるようにして、歩き出す。
「何だよ、それ」
引き攣れた声が言った。
「電話してきたのは安斎っていう人」
安斎は、自分は生活安全課の警察官だと名乗った。里佳は歩きながら、安斎から聞いた話を簡潔に伝えた。
彼がいる警察署の管轄区域で最近、変質者による被害が頻発していること。
被害者のほとんどは若い女性であること。
犯人はまだ捕まっていないこと。
そのため、近辺へのパトロールを強化していたこと。
そして一時間前。
とある公園で、高校生くらいの女の子を保護したこと。そのとき、女の子はバッグなどの所持品を何も携帯していなかったこと。
「保護」という言葉が意味するところについては考えたくもなかった。まだこちらの身元がはっきりしないためか、安斎もそのことについて詳しくは言及しなかった
「住所、氏名、連絡先、一切言おうとしないんだって。身元を証明するようなものも持ってなくて、だけど明らかに未成年者の彼女を、はいそうですか、って夜道に放り出すわけにもいかないしで、扱いに困ってるって」
ようやく大通りにたどり着いたと思ったら、いつも道路脇に連なっているはずの、飲み帰りの客を狙ったタクシーは一台もいなかった。逆にタクシー待ちの客のほうが歩道に溢れているという状況だ。思わず舌打ちする。多少時間はかかるが、いっそ駅まで歩くべきかと考えていた矢先のことだった。
里佳の横を影がすり抜け、その直後、けたたましいクラクションが辺りに鳴り響く
「ちょ、雅哉!?」
道路に飛び出した雅哉は前に立ち塞がるようにして回送中のタクシーを止めるなり、すぐさま運転席に飛びついた。数秒の押し問答の末、雅哉が里佳を振り返る。
「悪い、とりあえず行ってくる。帰ったら電話す、」
最後までは言わせなかった。雅哉をタクシーの後部座席に押し込み、そのあとに続けて乗り込む。雅哉が何か言いたげに口を開いたが、里佳は「運転手さん、出してください」と、先手を打った。
「悪い」
「いいよ」
乗りかかった船だ。今さら降りるつもりはさらさらない。
それで? と、車がゆっくりと走り出したタイミングで、雅哉が尋ねる。里佳が横目で様子を窺うと、前方を睨み付けるようにしていた雅哉は、里佳に視線を転じた。
「それでその安斎って警察官はなんで俺の携帯に?」
レンズ越しにこちらを見た暗い目に、聞いたこともないような低い声に、背筋に何か冷たいものが走り抜けるのを感じた。里佳はごくりと唾液を呑み込んだ。
「メモ……が、」
その瞬間だった。雅哉は「くそ!」と、拳をシートの座面に叩きつけた。思わず身が竦む。顔を上げると、ミラー越しに不安そうにこちらの様子を窺う運転手と目が合った。頭を下げ、同乗者の非礼を詫びる。
雅哉は眼鏡を外すと、握ったままの拳を額にあて、深くシートに凭れた。ゆっくりと吐いた息はまるで内部に燻った感情を外へ逃がしているかのようだった。
「彼女に、渡したんだ。携帯番号、紙に書いて……さっき」
安斎が言うには、少女のコートのポケットのなかに携帯番号が走り書きされたメモが入っていたと。そしてそれが唯一の彼女の所持品であり、彼女の素性を知る唯一の手掛かりでもあったと。
「遅いから気をつけて帰れって。もし何かあったら電話しろって。……くそ、なんであのとき、」
そのまま呑み込まれた言葉はきっと、悔やんでも悔やみきれない後悔。
予感は、あった。おそらく二人ともに。
安斎から話を聞いた里佳が真っ先に思い浮かべたのは、遠ざかる彼女の白い背中であった。
シートの上に置かれた彼の手は、手の甲が白くなるほどに固く握り絞められていた。今、心のうちではありとあらゆる罵詈雑言が投げつけられているに違いない。他の誰でもない、彼自身に向けて。
里佳は視線を窓の外に移した。白い景色はさっきから一向に動いていない。
今はただ、一刻も早く車が目的地へと到着することを願うことしかできなかった。
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