第4章 夜の片隅で

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 結局、美月が相良から眼鏡を取り返すことは叶わなかった。美月が相良の手から何とか取り返したストライプ柄の眼鏡ケースのなかは空だったからだ。
「ざーんねん。実は眼鏡は持って来てませーん。部屋出るときに中味、下駄箱の上に置いてきちゃったんだよね」
 すぐさま部屋に取りに戻ろうとした美月だったが、広間を出ようとしたところで、「そろそろ始めまーす」という実行委員の声に呼び止められ、渋々諦めたようだった。
 なるほど。眼鏡ケースをチラつかせて押し問答していたのは時間稼ぎか。なかなかの策士だな、と内心で舌を巻いていたところに、「あのさ、黒川君」と、相良が声をかけてきた。ごめんね、と頭を下げられ、戸惑う。
「ごめん、って何が?」
「あー、えーと、……うん、あの、とにかく謝らせて。意味不明かもしれないけど」
 かも、じゃなく、どう考えても意味不明だった。心当たりもまったくない。
 常に冷たい視線を向けてくる宮地とはちがい、相良は、彼女の親友にしつこく食い下がる圭介に対し、とても好意的で、しかも協力的でもあった。さらには美月の完全なる素顔を拝む機会まで与えてくれたのだ。感謝されこそすれ、謝られる覚えなど。
「えっと、なに? ほんとわけわかんないんだけど」
 しかも今、美月がすぐ傍にいないタイミングでのことだ。一抹の不安を覚える。だが、いくら尋ねても相良はそのことに関しては結局、最後まで口を噤んだままだった。

「では、ルールの説明します」
 ステージ上には実行委員のレクリエーション担当の男子生徒三人。マイクを握っているのは圭介のクラスメイトの河野晃だ。
 今から行われるゲームが「王様ゲーム」だということが分かると、会場内は大いに盛り上がりを見せた。
 圭介の隣に座っていた宮地は「へんなのと当たったら最悪じゃん」と、眉間にも鼻にこれでもかというくらいに深い皺を寄せ、心底嫌そうな顔をしている。当然のことながら、美月もどことなく不安そうな表情で説明を聞いている。
「皆さんが知っている王様ゲームとはちょっとルールを変えて行います」
 河野は言いつつ、上部に穴の開いた正方形の箱を掲げた。
「この箱のなかには『王様の命令』が書かれた紙が入ってます。皆さんには予め番号が書かれた割り箸を引いてもらい、それで番号を割り振ります。それから、司会者である我々が番号を読み上げ、その上でこのなかからクジの要領で引いた『命令』をその人たちにします。いいですかー、くれぐれも命令には絶対服従でお願いしますよー」
 会場内が一気にざわつく。
「ちょっとお静かに──」
 負けじと河野がマイクに向かって声を張り上げたところで、キーンという脳天をつんざくようなハウリング音がスピーカーを通して場内に響き渡った。あちこちで悲鳴が上がり、圭介も思わず耳を塞ぐ。マイクの調整をしてから再度、河野が説明を再開した。
「えー、どのような『命令』があるかというとですね、とある動物の物真似をする、とか、尻文字を書く、とか、」
 河野は一旦そこで言葉を切ると、口許に拳を当てゴホン、と思わせぶりな咳払いをした。
「あとは2番が3番に告白、とか、ハグする、とか、紙越しにキスする、とか……まあ、いろんな『命令』を各種取り揃えていまっす!」
 河野が言い終わると同時、場内はそれまで以上に沸いた。美月と相良、宮地がそれぞれ顔を見合わす。
「ハグとか、紙越しにキスとか、マジあり得ないんだけど。いや、ほんとまじで!」
 宮地はそう言っていきり立った。それを横から相良がまあまあと宥めてから、「それにしてもさ」と、圭介を見た。
「こんなゲーム、よく先生たちの許可が下りたね」 
「まあ、もともと、教師の許可取ってなかったらしいからなー」
「え、そうなの!?」
 相良が驚きの声をあげる。圭介は胡坐をかいた足を組みかえながら「ああ」と頷いた。
「きっと許可下りないだろうから、当日いきなりぶっちゃけて、そのままやっちまえーってさ」
「えええ!? そんな無謀な。美月は? 知ってた?」
 美月は相良の問いかけに首を振った。
「ううん。私も今聞いて驚いたとこ」   
 当然だ。圭介もついさっき河野から話を聞いたばかりなのだから。
 しおりのレクリエーションの項目は単なる「ゲーム」となっている。しおり作成時に尋ねたところ、とりあえずそう書いておいてくれ、と河野に頼まていた。
 九州組の引率教師の平均年齢はわりと若い。頭の固い中高年の教師陣がいないのをいいことに強行突破でやってしまえ、という腹積もりだったらしい。 
「まあ、結局、直前でバレたみたいだけど」
「え? でもさ、それでもやっていいって話になったの?」
 相良が首を傾げた。
「岡本なんかはむしろ面白がってるふうだったらしいんだけど、橘がかなり渋ったみたいでさ。そんなことしたら風紀がー、とかなんとか」
 軽快なギャグを飛ばしたりして生徒受けのいい体育教師の岡本はともかくとして、問題はやはり橘だったようだ。
 橘、とは三十代前半の女性教諭である。担当教科は物理。その選択教科が示す通り、なかなかの堅物といったかんじだ。「ゆかり」という麗しい名を持つ彼女はいつも、どこの面接試験を受けに行くのかというようなリクルートスーツで身を固め、きっちりと後ろでひとつ結ばれた髪は一切の乱れ知らずだ。
「と・こ・ろ・が!」
 突然割って入ってきた声に、思わずぎょっと身を引く。どこから降って湧いたのか、四つん這いの状態で圭介たちの輪のなかに飛び込んできたのは、圭介と同じく、サッカー部に所属する渡辺弘だった。

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