第4章 夜の片隅で
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「麻衣、約束したでしょ。言うこと聞いたら眼鏡返してくれるって」
「えー、ちがうちがう。レクリエーション終わって、部屋に帰ってから、って言ったじゃん」
そのやりとりで大方の状況は飲み込めた。取り上げた眼鏡を返す代わりに髪を弄らせろ、と相良が美月に交換条件を突き付けたのだろう。
(美月はさー、もとがいいんだから、眼鏡やめてー、コンタクトしてー、それから髪とかメイクとかもちゃんとしてー。ね、絶対そのほうがいいって。黒川君もそう思うでしょ?)
美月のことが好きで好きで仕方ないらしい相良はことあるごとにそうボヤき、同意を求められた圭介もまた大いに頷いたものである。
ナイス相良! 心のなかで思わずガッツポーズを握る。
それにしても、と宮地をあいだに挟んだ状態で相良との攻防を繰り広げる美月の顔を、改めて慎重に視線でなぞりながら思う。女ってほんとこええ。
眼鏡と髪型ひとつでこうも変わるものか。これでちゃんと化粧のひとつでもすれば、きっともっと大化けするに違いない。
そういえば、と少し前、家に来ていた三歳年上の大学生の従兄弟のとのやりとりを思い出す。
(女ってすげーぞ)
(何だよ、それ)
(街ぶらついてたら、やけにかわいい女が突然声掛けてきてさ。俺にしてみたら、ダレですか、アナタ? ってかんじだったんだけど、じつはその子、高校んときの同級生でさ。けどさ、高校んときともうぜんっぜんちがうわけ。化粧してさ、髪染めてパーマかけたりなんかしてさ、ほんとだれだおまえ、ってくらい垢抜けてんの。うちの高校なんかとくに校則厳しくて皆ほぼすっぴんで、そいつだっていかにも田舎の女子高生ってかんじだったから、そりゃもうビフォーアフター半端ねえっていうか)
(へえ)
(……で、そいつ、今の俺の彼女)
(へえ……へ!?)
しれっと言い放った従兄弟は、らしくもなく鼻の頭を赤くしながら照れていた。結局、ただ単に惚気たかっただけらしい。へーへー、羨ましいこった。
漫画のヒロインよろしく、ブスだと思っていた眼鏡女が、眼鏡をとったら実はすごいかわいい子でした、という嘘っぽいシチュエーションと同じだとは思わない。
元々、彼女がきれいな顔立ちをしているということは、なんの色気もない眼鏡のレンズ越しにだって十分わかっていた。
圭介の高校は、従兄弟の通っていた高校とは違い、服装に関する校則だけはわりと緩めだ。よほど派手派手しくなければ、髪を染めることも化粧をすることも許されている。アクセサリーの類は禁止されてはいるが。
だが、もちろん皆が皆、そういったおしゃれを楽しみたいわけではない。男子女子問わず、おのずとグループは分かれる。派手な子と、そうでない子たちが集まるグループ。そしてどのクラスにも、主にはそういったことを基準としたヒエラルキーが自然とできあがる。
容姿も振る舞いも派手な美優のほうは、クラスでトップに近い位置に君臨しているようだ。きっとそのせいもあるのだ。どちらかというと正反対のタイプの美月は彼女の影となり、クラス内でもあまり目立たない存在であるようだった。
五月の夕暮れ時の教室で、初めて彼女に声をかけたときのことを思い出す。
声が、聞こえたのだ。昼間の喧騒から解放された放課後の教室から。慎重に耳を澄まさなければ聞き漏らしてしまうほどにちいさな、歌声。やけに耳通りのいいその声の出処を辿っていくと、赤いフィルターをかけたような、夕日の色に満たされた教室で、机に突っ伏した女子生徒の姿を見つけた。入り口からは後姿しか見えないというのになぜか、彼女だ、とすぐにわかった。
これよかったら食べてよ、と強引に弁当を押し付けてきた綾瀬美優の姉。地味で、存在感の薄い、勉強ができるということ以外とくに特筆することもない優等生。実際、気にも留めたことがなかった。あのときまでは。
偶然、校舎の階段で目にした光景。
優等生とその担任教師の、どことなく不自然なやりとり。教師と別れた直後、彼女が逃げ込むようにして入って行った保険室から、ほどなくして声が聞こえてきた。圭介はそっと扉に近づき、耳をすませた。薄い扉一枚隔てた向こうで、彼女は泣いていた。きっと必死に押し殺そうとして、けど叶わなかった悲鳴のような、泣き声。聞いているこっちの胸が押し潰されてしまいそうな。
それ以来、気がつくといつも彼女の姿を探してしまっている自分がいた。
(へえ、こういうの、聞いてるんだ)
君のことを知りたい。もっと。
君が何を見て、何を聞いて、何を想うのか。
(なに?)
向けられたのは警戒心剥き出しの視線。
目、でっかいなあ。
はじめてまともに見た彼女の瞳のなかに、自分の姿を見つけた。
君の見ているその世界に、どうか入れてほしい。
ああ、これ、マジでやばいやつだ。
(だって俺、あんたのこと好きだから)
それこそ坂道を転げ落ちるように、恋に落ちた。
ん? ちょっとちがうか。
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