第4章 夜の片隅で

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「何してんのよ、あんた?」
 壁にもたれた状態でパック入りの牛乳を飲んでいた圭介は突然かけられた声に、思わず咳き込んだ。口元を拭いながら振り返るとそこには圭介と同じく、濃紺の学校指定ジャージに着替えた宮地紗枝が立っていた。
「おま、いきなり話しかけんなよ。鼻から牛乳ふくとこだったじゃねーか」 
「うわ、汚なっ」
 顔に嫌悪感をたっぷり滲ませて後ずさる宮地に思わずむっとする。
「おまえなあ、大体いったい誰のせいで、」
「あー、はいはい」
 宮地は言いつつ、面倒くさそうにショートカットの頭を掻いた。
 くそむかつく。圭介は内心で悪態をつく。口に出してしまえば二倍、いや三倍になって返ってくることは目に見えていたからだ。
 宮地とは一年のときに同じクラスになったことがある。顔はまあそれなりにいいことは認める。そこそこモテることも知っている。が、圭介は正直、この元クラスメイトが苦手であった。
「んで? こんなところで何してんのよ? 誰かと待ち合わせ?」
「いや、べつにまあ、風呂上がったばっかでまだあちーし、ちょっと涼んでたっつーか、なんつーか」
 残った牛乳をストローで一気に吸いつつ視線をうろつかせる圭介に宮地が、ああ、と笑いを漏らす。 
「美月、ね」 
 再度むせそうになったのは辛うじて堪えた。
 図星だった。このあと、レクリエーションが行われることになっている広間を先に覗きに行ってみたのだが、美月の姿を見つけることはできなかった。てっきり宮地たちと一緒に来るだろうとふんでいたのだが。
「残念でしたー、美月はまだ部屋。風呂あがって荷物置きに行ったら、美月はちょうど上がったばっかだったみたいでさ。髪乾かすから先に行ってて、ってさ。終わるの待ってたんだけどさ、もうちょっとかかりそうだし先に行って場所の確保しといたほうがいいかなって。でも、ま、じきに麻衣といっしょに来ると思うよ」
「部屋って、綾瀬、大浴場に行かなかったのか?」
 各部屋にも一応ユニットバスはついているが、生徒たちは皆、時間を区切って順次、大浴場を使用することになっていた。とくに何も考えず口をついて出た素朴な疑問だったのだが、
「察しろ、ボケ」
 宮地の間髪入れない口撃に、「あ、ああー、……ああ」と、──察した。
 いわゆるそれは、あれ、なのだろう。女というのは色々と面倒で大変だな、と改めて思う。 
 当てが外れ、さてどうすっか、と空になった牛乳パックを握りつぶしたところで、「ちょっと麻衣、待ってってば」という声が廊下の向こうのほうから聞こえてきた。美月の声だ。いつも冷静で、落ち着き払っている彼女には珍しい、どこか焦ったような響きがある。
 振り返ると、目に飛び込んできたのは廊下を歩く他の生徒のあいだを縫い、半ば走るようにしてこちらに向かって来る相良の姿だった。そして少し遅れてそのあとを追う美月の姿も。
「待って、麻衣。約束がちがう」
 美月の声から逃げるようにして宮地の後ろに回り込んだ相良は、宮地の肩越しにひょっと顔だけ覗かせてから肩を竦めた。
「えー、そんな約束した覚え、ありませーん」 
 真面目な彼女のこと、公共の場所であるホテルの廊下を走るわけにはいかなかったのだろう、ようやく追いついた美月を振り返った圭介は一瞬、言葉を失った。
「……え? あや……せ?」
 そこではじめて圭介の存在に気がついたのか、美月はハッと驚いたようにこちらを見、そして慌てたように顔を伏せた。何事かと通りすがりに様子を窺う生徒の何人かが、主には男子生徒なのだが、「え? あれってさ、」と圭介と同じ反応を残していく。
 それもそのはずだ。彼女はいつもの彼女ではなかった。正確には、圭介の見知っている彼女では。
「麻衣、ほんとお願いだから、眼鏡……返して」
 顔を下に向けたまま、美月は今にも消え入りそうな声を出した。
 そう、美月はいつもかけているはずの眼鏡をかけていなかった。品のいいナイロールフレームの眼鏡。髪型も、ちがう。ふだん顔を覆うように下ろされた長い前髪は生え際に沿って斜めに編み込まれ、きれいな額が露わになっている。
 視線が合っていないことをいいことに、圭介は思う存分、彼女の輪郭に視線を這わせる。覆うものの何もない、彼女を形造るパーツのひとつひとつをつぶさに観察し、堪能する。
 いつもは半分しか見えていない眉はきれいな左右対称でやわらかな弧を描き、それほど高くはないもののすっと通った鼻は思った以上に小ぶりだ。
 何か塗っているのか、軽く噛みしめられた唇は艶やかに濡れているが、ほかのパーツに関しては化粧の類はしていない、と思う。白いなめらかな肌のむこうには、血管が透けて見えているからだ。透き通るような白い肌、というのはまさにこういうことを言うのだろう。
 風呂上りのせいかほんのり桜色に染まった頬も、首筋に貼りついたまだ少し濡れた髪も、やわらかそうな頬に濃い影を落とす長い睫も、何もかもが妙に色っぽい。
 なんの色気もないはずのジャージまでも、そのだぶつきが彼女の華奢な身体を強調しているようで。
 やべえ。鼻血出そう。
 圭介は思わず、ジャージの袖で鼻の下をごしごしとこすった。

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