第4章 夜の片隅で

-04-

 美月はなかなか戻ってこない。徐々に勢いを増しつつある太陽の光が、じりじりと肌を焼く。
 進藤はスーツの上着を脱ぐと手の甲で汗を拭った。すでに衣替えの済んだ生徒たちは夏服であるが、教師一同は見るからに厚くて暑そうなスーツ着用だ。この陽気のなか、ご苦労なことである。
「先生、ハンカチ持ってないの?」
 麻衣はポケットからハンカチを取り出した。
「私、何枚か持って来てるから貸しといたげる。返すの今度でいいよ」
 進藤は素直に受け取り、そして、なぜか手のなかのそのハンカチをまじまじと眺めた。
「えっと、さっきも言った通り、べつに深い意味はないからね。先生にはお世話になったしさ。それにソレ、ちゃんと洗濯済だし、今日はまだ使ってないからきれいだよ」
「いや、そうじゃなくて、」
「そうじゃなくて?」
「いや、なんていうか、見覚えがあるような……気がして」
「えー、ほんと? 勘違いじゃない? それさ、この前フリマに行ったときに買ったんだけど、作家さんの手作りで全部一点ものなんだよ。あ、そうそう。美月も同じの買ったんだよね。デザインはほとんど同じなんだけど、微妙に色合いと刺繍が違うやつ。だからたぶん先生のかんちが……、えっと、先生?」
 一瞬、眼鏡のレンズ越しに見えた目に、何か強い感情が浮かんだような気がしたのだ。
「これ、ありがとな。気持ちだけもらっとく」
「あ、うん」
 結局、ハンカチは返されてしまった。親指の先で、縁に施された刺繍をなぞりながら、「ねえ、先生」と言葉を落とす。
「美月のこと、どう思う?」
「……どうって?」
「えっとさ、美月って、先生の目にはどう映ってる?」
 返事は、ない。麻衣は手のなかのハンカチをぎゅっと握りしめた。
「私さ、よく夢を見るんだ。美月の夢」 
 それはいつも同じ夢だった。
「穴がね、開いてて。そのすぐそばに美月が立ってるの」
 風が吹き荒ぶ、どこまでも続く荒野。ぽっかりと大きな口を開けた穴。底は見えないほどに深く、果てしない。あるのはただの、闇だ。
「その穴はね、何もかも吸い込んでいっちゃう。美月の嬉しいとか、悲しいとか、怒りとかそういうのを全部、ぜーんぶ吸い込んでいっちゃう」
 人付き合いがあまり得意な方ではないのだと思う。というより、彼女はあまり他人と関わりを持とうとしない。いつもどこかで、一線を引いている。目に見えない薄い膜が彼女を包んでいる。決して誰も、彼女に、彼女の心に触れることはできない。
「……私、怖いの」
 夢のなかの彼女はいつも見ていた。闇の底をぼんやりと。穴の外から内へと向かって吹く風が、彼女の長い髪をゆるくたなびかす。まるで何かが、おいでおいで、と手招きしているかのように。
 待って。
 ねえ、待ってってば。そっちに行っちゃだめ。
 伸ばした手はいつだって届かない。
 私じゃ、だめなの。お願い。だれか。
 さっき見た彼女の横顔が脳裏に浮かぶ。はじめて見た、彼女のあんな表情。
 だから。
 だからお願い。
「先生、お願い。美月をたすけて」

ランキングに参加してます。
inserted by FC2 system