第4章 夜の片隅で

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「あ、ほら見て」
 吊り橋のなかほどまで来たときだった。
「ほら、あそこ。滝が見える」
 美月が半ば身を乗り出すようにして遠くを指差す。麻衣はおそるおそる手摺に両手をかけた。自分でも笑えるくらいのへっぴり腰だ。はるか遠く、濃い緑の合間にきらきらと光るものが見えた。細い糸を束ねたような水が、光を反射しながら流れ落ちている。
「わあ、ほんとだ。見えた見えた!」
 麻衣の歓声に、後ろにいた進藤がすぐ横に並ぶ。
「ああ、ほんとだな」
「ちょ、先生、急にあんまり大きな動きしないでよ! 揺れるし!」
「あほか。さすがに俺一人の動きでどうこうなるようなレベルの大きさじゃないだろ」
「でも! 揺れるの! もっとゆっくり動いてってば!」 
 渓谷の遙か上を渡るこの橋は別名、天空の散歩道。ただし麻衣にとってこれは散歩、などとそんな優雅な代物ではない。言うなれば命がけの綱渡りだ。
 渡りはじめはそうでもなかったのだが、中心に近づくにつれ、揺れは確実に大きくなっている。視覚的にも、体感的にも、だ。
「下のほうは見ないようにね」
 ぴたりと寄り添った美月の手がそっと、いたわるように背中に回される。
 わかってる、と答えた声は無様に震えた。情けない。下どころか、せっかくの絶景を楽しむ余裕さえない。
 意外だな、という笑い混じりの声は背後からだ。
「こういうところ、いかにも喜びそうなのにな」
「先生、うるさい」
 すかさず振り向き、声の主に噛みつく。
「どうせバカと煙はなんとか、って言いたいんでしょ」
「んなこと、俺はひと言も言ってない。……が、自覚ありってことか」
「うがー! むかつく!」
 進藤が揶揄い、麻衣が犬の仔よろしくきゃんきゃん吠え散らす。さっきから幾度となくくり返されてきたやりとりに、そのつど美月は笑みを漏らす。くすくすと、楽しそうな笑い声が耳をくすぐる。
だが、
「あー、せんせい、こんなところにいたんだあ」
 鼻にかかったような甘ったるい声に、美月の笑顔は瞬く間に消え失せる。すでに向こう側に渡り、Uターンして戻ってきた生徒たちのなかに美優の姿があった。 
「私、せんせーのことずっと探してたんだよ。こんな後ろにいると思わなかった」
 数人の友人を伴い、美優が駆け寄ってくる。
 走るな。揺れる! 思わず彼女にまで噛みつきそうになるが、寸でのところで堪える。
「岡本先生はまだ向こうか?」
「うん、まだ。たぶんもうちょっと後ろのほう」
「じゃあ、橋を渡り切ったところで待っとくんだぞ。全員集合してから移動するから」
「えー、せんせい、いっしょに戻ろうよー。渡り切ったところで何もないし、こっからもう、私たちといっしょに引き返せばいいじゃん」
 美優の進藤に対する好意はあからさまだ。べつに隠すつもりもないのだろう。今回の修学旅行にしろ、彼女は元々別の行き先を希望していた。だが、進藤がこちらの引率をすると知り、急遽行き先を変更したのだという。
「そういうわけにはいかないだろ」
 呆れたように息を吐いた進藤が、ほら行った行った、と手で追い払うような仕草をする。美優は「ひどーい」と、頬を膨らませ下唇をつきだした。大抵の男であれば、本意不本意に関わらず、ついつい手を差し伸べてしまいたくなるに違いない。彼女は自分の魅せ方をとてもよく知っている。
「先生も早く来てよねー」
 美優が行ってしまうと、隣で美月が詰めていた息を吐き出したのがわかった。結局、美優は最初から最後まで美月をちら、とも見ようとはしなかった。教室でもどこでも、美優はいつだって美月をいないものとして扱う。美月もまた、同じだった。ひっそりと息を潜め、そこに居ないかのように振る舞う。
 まるで自分がそこにいてはいけない存在であるかのように。

「はあああ、嫌な汗かいたー」
 地面に足がついたところで、限界まで張りつめていた糸はぷつりと切れた。そのまま地面にへたり込む。全力疾走でトラックを何周もしたかのような、とてつもない疲労感だ。しかも足の下で地面はいまだ揺れている。きもちわるい。
「私、ちょっと飲み物買ってくるね。すぐ戻ってくるからここで休んで待ってて」
 慌てて顔を上げるが、美月の背中はもうすでに遠かった。身体を動かすことはあまり得意なほうではなく、どちらかというとおっとりしている彼女だが、いざという時の行動力は半端ない。
 前にも同じようなことがあった。
 夏の真っ盛り、テニス部の自主練中に麻衣が倒れてしまったときのことだ。
 あいにく部活顧問は不在だった。たまたま居合わせた美月の適切な処置のおかげで大事には至らなかったのだが、保険医曰く、へたをすれば入院レベルの熱中症だったと。
 後日、友人たちに聞くところによると、倒れた麻衣を前に、皆にてきぱきと指示を出し、迅速な動きで麻衣に処置を施す美月の姿には目を見張るものがあったらしい。
 ほとんど意識がなかった麻衣にはそんなこと知る由もなく、そのときの彼女に関する記憶はただひとつだけ。
 保健室のベッドの上で目を覚ました麻衣が目にしたのは、目の縁を赤く染め、自分の手を握る彼女の姿だ。瞬きした拍子に、涙がひと筋、彼女の頬を伝った。
 不謹慎にも、とてもきれいだと、そう思った。

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