第4章 夜の片隅で

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「ちょっと、ねえ、黒川君! ねえってば!」
 必死に抵抗する美月の手をがっちりと掴んだまま圭介は大広間まで戻ってきた。その勢いのまま襖を引き開ける。手入れのよく行き届いているらしい襖戸は滑りも上々で、かなり大きな音を立てて開き、生徒たちの視線が一斉に圭介たちに集中する。
 よかった、間に合った。どうやらそろそろお開きの時間だったらしいが、皆はまだいて、片づけをしている真っ最中だった。圭介はぐるりと視線を会場内に巡らせた。いた。ステージの前に河野の姿を見つける。口笛や揶揄いの声が降り注ぐなか、まっすぐに河野を目指す。よりいっそう抵抗の激しくなった美月の手を引っ張りながら。
「河野」
「お、おう」
「くじ」
「は?」
「くじだよ、くじ。さっきの割り箸の」
「あ、ああ」
 河野は首を傾げながらもステージに飛び上がった。隅のほうに置かれていた段ボール箱からくじの入った箱を探し出し、戻ってくる。圭介はわずかに残った数本の割り箸のなかから一本選び取った。出た数字は「17」。うん、なかなかいい数字だ。
 圭介はその番号を河野に確認させたあと、美月に押し付けるようにして割り箸を渡した。
「河野、俺は7番な」 
 わけが分からないといった河野に顔を寄せ、耳打ちする。
「頼む」
 圭介の頼みを聞いた河野はニッと笑い、ふたつ返事で引き受けた。河野はステージに上がると、マイクを手に取った。圭介もまたステージによじのぼり、美月の手を引く。美月は最後の最後まで抵抗したが、強引に引っ張り上げた。
「はい、皆さん、ちゅーもーく。ではここで、最後にもう一ゲーム!」
 河野の声が響き渡る。言われるまでもない、といったかんじだろう。何事が起こったかと、おそらく会場中の視線がステージ上に集まっている。
 繋いだ手から伝わってくる美月の震えはより一層強くなった。一度、ぎゅっと強く握ったあと、圭介はその手をそっと離した。一歩下がり、距離を置く。美月は不安そうに眉を寄せている。圭介は美月に笑ってみせた。河野が一度大きく息を吸ったのが分かった。圭介も深く呼吸する。
「では王様からの命令です! 7番は17番に思いの丈を思う存分ぶちまけちゃってください!」
 会場は一気に沸いた。それはもう、ものすごい勢いで。突然降って湧いたイベントを、皆は拍手喝采で歓迎してくれた。河野から差し出されたマイクを断り、圭介はあらん限りの力を腹に込めた。
「俺は、おまえが好きだ!」
 声の大きさに驚いたのか、美月の肩はびく、と跳ね上がり、そしてみるみるうちに顔が赤くなった。逃げた視線はおそらく逃げ場を探し、だが諦め、戻ってきた。ゆっくりと、唇が開く。圭介は言葉で彼女の言葉を封じた。
「好きだ!」
 いつの間にか辺りは静まり返っていた。皆、待っているのだ。彼女が下す決断を。
「……黒川君、あの、」
「綾瀬、好きだ」
「だから私は、」
「俺なんか、もっとだ」
 聞こえねーぞ、という野次が飛ぶが、圭介は今度は可能なかぎり声のボリュームを絞った。
「美月が汚いって言うんなら、俺なんかヘドロだ。三日洗ってないTシャツだ、いや、便所のスリッパ以下だ」
 虚を突かれたように目を大きく見開いたあと、なにそれ、と美月は笑った。今にも泣きそうな顔で。
「やっぱり、そっちのほうがいーな」
 美月は泣きそうな顔のままで圭介を見返した。
「泣け、っつたけど、やっぱ笑顔のほうが百倍いーわ」
 圭介は美月の腕を引いた。ふいをつかれた美月は難なく圭介の腕のなかに納まった。そのまま背中に手を回し、抱きしめる。美月の身体は思った以上にやわらかで、驚くほど華奢で、そして思ったとおり、いい匂いがした。
「そうやって、笑っててくれよ。俺、バカだけど、……バカだけどさ、」
 圭介は強い視線を感じ、顔を上げた。圭介は美月の背を抱く手に力を込めた。
「大事に、する。あいつなんかより絶対、大事にするから」
 圭介の視線の先で、進藤の背中はゆっくりと、扉の向こうに消えた。
 

 夜中に、目が覚めた。そっと部屋を抜け出し、廊下へ出る。夜中の三時。さすがに人の気配はまるでない。あまりに静まり返った廊下に気後れするが、意を決して突き当りを目指す。たしか自動販売機があったはずだ。
 角を曲がったところだった。美月は辛うじて悲鳴を呑み込んだ。まさか人がいるとは思いもしなかったのだ。相手も同じだったのだろう。だが、それも一瞬だった。見開かれた目はすぐにいつもの鋭さを取り戻した。   
「なにしてんのよ?」
 喉が乾いて、と美月が言うと、美優は手にしていた缶を投げるようにして寄越した。そして、自分はもう一本同じものを買う。
「あ、ありがと」
 美優は黙ったまま壁に背を預けると、プルタブを押し開けた。美月も壁際に添い、缶を開けた。ぷしゅ、という音はやけに大きく響き渡った。
 静寂に包まれた空間で、自動販売機のモーター音だけが振動として伝わってくる。先に沈黙を破ったのは美優のほうだった。
「訊かないの?」
 視線を前に向けたまま美優が言った。
「……なにを?」
「さっき、外で何してたか。進藤先生と」
「訊いたら、教えてくれるの?」
 尋ねると美優は鼻を鳴らして笑った。そして、
「そういえばさ、さっきはなかなか面白い見世物見せてもらったわ。黒川ってさ、あんなにアホだったんだねー。笑っちゃった」
 でもさ、と美優のきれいな爪が缶を弾いた。小気味いい音が鳴る。
「バカじゃあ、ない。あんたのこと、よく分かってるよね」
「どういう意味?」
「だってさ、あんな大っぴらに宣言されたんじゃ、逃げらんないよね。あんたの性格上。なかなかやるじゃん、黒川圭介。……んで、どうすんの?」 
 美月は黙ったまま缶の縁を指でなぞった。
「ま、べつにどうでもいいけど」
 そう言って缶の中身を一気に飲み干すと、さてと、と美優は壁から身体を離した。
「私……さ、そろそろ本腰入れて勉強するわ。受験生だしさ、一応」 
「私は、卒業したら家を、出るよ」
 俯いた美月の視界の端で、美優のスリッパがこちらを向いた。
 返事は遅れてやってきた。へえ、そうなんだ、と。そしてスリッパは、ぺたぺたと音を立てながら視界から消えた。美月は缶に口をつけた。まだ十分に熱さを保ったミルクティは、やけに甘ったるく感じた。


                              第4章 了

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