第4章 夜の片隅で

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 何でもないことのように吐かれたその台詞は、彼女からもっとも縁遠い台詞のような気がした。だから最初はすんなり入ってこなかった。いや、耳にはちゃんと入ってきたのだが心には刺さらず、一度はするっとすり抜けた。
 私ね、男の人と寝たことがあるの。
 なんだそれ。新手のギャグか、それともタチの悪い悪戯か? まんまと騙されてやんのバーカ、って? そんなどうしようもないようなツッコミがぐるぐると頭のなかを駆け巡る。が、残念ながら彼女はそういった類の冗談を口にするタイプでは決して、ない。
 今の時代、高校生で初体験を済ませるやつなんか男でも女でもザラにいて、クラスの中でもいつヤっただの、誰とヤっただのなんて会話は日常茶飯事だ。一見大人しそうに見えるクラスメイトの女子生徒がどうやらもう経験済みらしいなどと聞くと、へえ、見かけによらないんだな、などと思ったりもしたものだが、それでも、圭介のなかで美月はいわゆる「白」だったのだ。
 彼女の生真面目さや雰囲気がそう思わせていた、ということもあるが、おそらくは大抵の男が抱く願望、あるいは幻想のようなものだ。自分こそが「彼女のはじめての相手」でありたい、と。
 ほんとアホだな、俺。
 図書室にいた寺田の清潔そうな顔を思い浮かべる。二人が付き合っていたことは知っている。だが、美月と寺田の交際期間の短さに心のどこかで一縷の望みを託していた。
「私ね、寺田君と付き合ってたことが、あるの」
「ああ、……うん」
 知ってる。ちょっと前に聞いた。
「二年の時にね、同じ図書委員になって」
「へえ」
 ああ、そっか。それであんとき図書室で。
「でも、知らなかった。美優のほうが先だったって」
「先って?」
 先って、何が?
「寺田君と知り合ったの。一年の時にね、同じクラスだったんだって」
 知ってたら私、というほとんど囁くように呟かれた言葉は聞こえなかったふりをした。
「私、寺田君が初めてだった。付き合うのも、キスするのも。その先のことももちろん覚悟はしてた。……けど私、彼は違うんじゃないかって。彼はとても理知的な人だったから、そのへんの男の子たちとは違うんじゃないかって」
 ばん、と横っ面を張られたような気がした。自分はきっと、彼女が言うところの「そのへんの男の子たち」というカテゴリーに入れられているだろう。否定は、できない。彼女の元恋人のように「理知的なひと」でもないし。それに。

 汚い。

 どこからかそんな声が、聞こえた気がした。 
「だから彼が、……べつの子と……その、してるのを見たとき、」
「ちょい待ち」
 思わず声を挟んだ。
「見たときっておまえ、その……現場を、見ちゃったわけ? えっと、その、まさに最中……を?」
 信じられない思いで尋ねるが、美月が頷くのを見て圭介は思わず「まじか」と額を抱えた。まじなの、と美月はらしくもない口調で苦く笑った。
「でもね、私、彼が浮気したことじゃなくて、その、まさか彼がそういうことをって、」
 この期に及んで口にすることを躊躇う美月のその先の言葉を引き受ける。
「まさかそんなヤツだったなんて? 理知的でオトナ−な彼がまさかそんなセックスするようなヤツだったなんて?」
 意識的に思う存分トゲを突きたてた言葉を放り投げた。美月からは声のない返答がかえってきた。俯いた彼女の頬にぱらりと髪が覆いかぶさる。長い指が髪を掬い上げ、耳にかける。月明かりのせいだろうか。動作の一つ一つがやけに色っぽく見えてしまうのは。のぞいた首筋の白さがちかちかと瞼の裏を刺激する。視線を引き剥がす。
「残念ながら、男なんてみんなそんなもんだよ」 
 そうだ。好きな女がいれば触れたいし、キスだってしたいし、それに。
 男は自慰行為に本当に好きなヤツは使わない、後ろめたさやらなんやらに使うことができない、なんて話をどこかで聞いたがあれは、嘘だ。
 彼女のことが気になりだしてから、するときにはいつだって彼女を想像した。それまでずっと世話になってたどこぞのグラビアアイドルとは比較にならないくらい、よかった。彼女を想像しては行為に耽った。矛盾してるのだ。「まっさら」な彼女を思い描きながら、真反対のことを彼女とした。彼女に、した。日毎夜毎、決して口には出せないようなことを彼女相手に行った。何度も。
 汚い。
 脳内で声が囁く。
 知ってるよ、そんなこと。とっくに。
 誰よりもいちばん、自分自身がそう思ってる。
 自分で自分が、
 いやになる。
「同じこと言ってた人がいた」
「……え?」
 顔を上げる。
「『男なんてみんな、そんなもんだよ』って」
 美月は笑っていた。とても、穏やかに。
 そして圭介はふと、気づく。
 
『まさか彼がそんなこと』
『私ね、男の人と寝たことがあるよ』

 一致しない二つのキーワード。
 断罪されているのだと、思っていた。あの目に、底の見えない海のような彼女の瞳にすべて見透かされてしまったと。きっと見つかってしまったのだと。どうしようもないくらい好きだなんだと口ではこぎれいな言葉を並べながら、腹のなかにはどろどろと薄汚いものを飼っていることを。寺田と同じだと。
「汚いでしょ?」
 美月は言った。
「私、その人と寝たの。夜の街でたまたまあった名前も知らない人。初めて会ったその日にその人と、寝たの。もちろん無理矢理、とかじゃないから。自分がそう望んだ。自分でそれを望んだ。分かった? 私には寺田君のことを非難する資格なんて、ないの」
 てっきり、彼女は寺田と同じ自分を切ろうとしているのだと思った。彼女の世界から切り捨てられようとしているのだと、排除されようとしているのだと、そう思っていた。
 けど、違った。
 むりやり扉をこじ開けようとした圭介に、鍵を開けろと無理強いした圭介に、美月は応えた。ほら、と自分のかさぶたを引っぺがして晒してきた。
 ほら、汚いでしょ。ぐちゃぐちゃでしょ。こんなにじくじくと膿んで。汚いでしょ。だから触らないほうがいいよ。いいよ。汚い、って逃げてもいいよ。お願い、逃げて。

 お願いだからさわらないで。
 
 気がつくと圭介は走りだしていた。美月の腕を掴んで、走りだしていた。

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