第3章 白と白と白と、そして赤

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 彼と初めて言葉を交わしたのは二年の一学期のことだ。
 初めての図書委員の集まりで、隣の席へ座ったのが彼だった。寺田聡。彼はそう名乗った。初めて耳にする名前と大人っぽい風貌に、上級生だろうと思っていた。
 よろしくお願いします。そう言って頭を下げた美月に、聡は少し困ったように笑い、自分が美月と同じ二年であることを告げた。聡は文系クラスの美月とは校舎が違う、理系クラスの生徒だった。
 それがきっかけとなり、たまに話をするようになった。彼はとても穏やかな物言いをする人であった。わりと低めで落ち着いた声は耳触りがよく、不思議な安心感があった。はじめの印象通り、彼は他の同級生の男子生徒たちよりずい分と大人びていた。
 スポーツで身体を動かしたりするよりは本を読んだりすることのほうが好きで、大勢でわいわいと過ごすよりは一人静かに絵を描くことのほうが好きだという彼は美術部に所属していた。
 学校の正面玄関に飾られている抽象画。それを聡が描いたのだということを知ったのは、少ししてからだ。展覧会で賞をとったというその絵は少し難解ではあったが、とてもきれいだと、単純にそう思った。
 そのうち、時間が合えば一緒に帰るようにもなった。他愛もない話ばかりではあったが、話題は尽きなかった。楽しくて、分岐点までの距離を物足りなく思うようになって、もっと話をしていたいと思うようになって、ばいばい、という言葉がなかなか出てこなくなって。
 彼のことが好き、なのだろうか。初めて抱く感情に戸惑いを覚えつつ、けれどそれがやがて確信へと変わるのにそう時間はかからなかった。もしかしたら相手も同じように思ってくれているんじゃないだろうか。そんなふうに自惚れたりすることもあったが、そのことについてはあまり考えないようにした。きっと無意識に予防線を張っていたのだ。
 お互いがそういったことにとても不慣れで、正直、どうすればいいのか分からなかった。一歩半。手が触れそうで触れない、それが彼との距離だった。
 そしてずっと平行線を保ったままだったその距離が、ふっとなくなった日のことはとてもよく覚えている。
 放課後、担任に頼まれた教材を資料室に返しに行った帰り、三階から屋上へと続く階段の辺りで覚えのある匂いを嗅いだ。匂いを辿り、階段をのぼる。いちばんてっぺんの狭いスペースに聡の背中を見つけた。彼はイーゼルに立てたキャンバスに向かい、一心に筆を動かしていた。辺りには油絵の具の匂いが充満していた。 
「何を、描いてるの?」
 後ろから覗き込むと、彼は文字通り飛び上がって振り返った。そのあまりの驚きように美月もまた驚き、そしていつもの彼らしからぬ焦った顔に、思わず笑ってしまった。
「ごめんね、驚かせて」
「いや、うん。その、こっちこそ……ごめん」
 なぜ彼が謝罪する必要があるのかと疑問に思いつつ、「これは何の絵?」ともう一度尋ねると、彼は俯いた。どこか気まずそうだった。
 いつもとは少し雰囲気の違う絵だった。どちらかというと赤やオレンジといった暖色系を好む聡にしては珍しい色合いの絵だったのだ。色、といってもほとんど色がついていない。何度も塗り重ねられた白、たまに色々なトーンの淡い青が混じり、とはいえさらにその上から白が重ねられているため、遠目にはほとんど白にしか見えない。
 窓ガラス越しに差し込む日の光が、絵の具の重なりの凹凸に陰影をつけ、模様を浮かび上がらせていた。白い絵の具はゆるく円を描いている。淡く、とても繊細な絵だった。
「すごくきれいな絵。でも、どうしてこんなところで?」
「ほら、最近暑くなったろ? 皆けっこうだれてて、美術室、うるさくてさ。ここなら静かで集中……できるから」
「そっ……か」
 それきり沈黙が落ちる。聡は視線を合わそうとしない。静かな場所を求めてわざわざやって来たのだとしたら、きっと邪魔をしてしまったのだろう。美月はここへ来てしまったことを後悔した。
「ごめんね、邪魔しちゃって」
 そう言って、一歩下がった瞬間だった。勢いよく立ち上がった聡の椅子が、がたん、と派手な音を立ててひっくり返った。美月は驚いていた。大きく廊下に響き渡った音よりも、自分が置かれている状況のほうに。
 聡に、抱きしめられていた。
 校庭ではその年はじめての、蝉の声が響き渡っていた。
 とても暑い日だった。
 はじめてのキスは、油絵の具と、夏の匂いがした。   

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