第2章 五月雨の深呼吸

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 ふと視線を感じ、横を見る。
「血が、出てる」
 そう言って雅哉の手が伸びてくる。指先がかすかに皮膚に触れた。そういえばたしかに少し、鈍い痛みがあった。男が逃げる際、爪か何かが引っかかったのだろう。自分の指でも触れてみるが、それほどひどい傷ではなさそうだ。血もすでに固まっている。大丈夫です、と指先を雅哉のほうに向けて見せる。雅哉はそうか、と言って表情を緩めた。
「なんか、雰囲気が違うな」
 どきり、と心臓が波打った。
「……そう、ですね。眼鏡だめになっちゃったから」
 男に踏まれたのか、フレームが歪んで使い物にならなくなってしまっていた。俯き、誤魔化しに髪をいじる。横顔にはまだ視線を感じた。美月はとうとう音を上げた。
「あの、あんまり見ないでください。恥ずかしいんで」 
 視線から逃げるように窓のほうへと顔を向ける。少し遅れて声が追ってきた。
「眼鏡は何かと不便じゃないか? コンタクトにはしないのか?」
 いつか同じことを雅哉自身が言われていたことを思い出し、そのときの言葉を真似てみる。
「あんまりモテたら困るので、眼鏡で十分です」 
 もちろん、冗談のつもりだった。なのに、
「ああ、たしかに。男が放っておかなそうだな」
 そんなふうに返され、どう反応していいか分からず、ミルクティを飲む。
「ラジオでもかけるか」
 雅哉がカーナビの液晶パネルをいじると、スピーカーから音が流れ出した。信号が代わり、車がゆっくりと滑り出す。DJがリスナーからの相談を読み上げ、簡潔な言葉で答えていく。相談内容のほとんどが恋愛に関するものだった。
 雨のなか、たくさんのオレンジ色のライトが流れていくのを眺めながら聞くともなしに聞いていると、「ではここでリクエスト曲を一曲」と音楽に切り替わった。
 ぴく、と肩が揺れた。考えるより先に、ほとんど反射的に身体が反応した。もう何度聞いたか分からない。くりかえし、くり返し。音が身体に、細胞のひとつひとつに沁み込んでいるのではないかと思うほどに。
「……俺さ、この曲、好きなんだ」
 知ってるか? と静かに雅哉の声が、車内に響いた。水がついたガラスに、車を運転する雅哉の姿が映り込んでいた。その横顔をそっと指先でなぞった。
「いえ。初めて聞きました」
 
 雨のせいか、あるいは時間帯のせいか、家に帰り着くのに思ったより時間がかかってしまった。幸い、家の明かりはまだついていなかった。両親ともに不在のようで、ほっと安堵の息を吐く。
「担任として、しかもまさに現場に居合わせた身としては、ご両親に報告する義務があると思うんだけどな」
「それはよく分かってます。分かってますけど、どうかお願いします。両親には言わないでください。未遂だったし、あの、心配……かけたくないんです」
「けどな」  
「今後は絶対こんなことがないように気をつけます。あんなとこもう二度と通りません。だから今回だけ、どうか今回だけは見逃してください。先生にもご迷惑はかけません。だから、あの、お願いします」
 必死に頭を下げた。言葉を並べた。知られたくなかった。知られるわけにはいかなかったのだ。やがて、頭上で小さくため息が聞こえた。
「今回だけだからな」 
「……ありがとうございます」
 車を降りると、雨はほとんど止んでいた。雅哉もまた車を降りてくる。ちょうど美月が肩にかけていたジャケットを雅哉に返したところだった。「せーんせ」という、少し鼻にかかった声に振り返る。赤い傘がこちらに近づいてくる。
「どうしたの? なんでこんなとこにいるの?」
 傘の下から顔が覗く。美優だった。美容院にでも行っていたのだろうか。もともと明るかった髪は暗がりでも分かるくらい、さらに明るい色になっていた。
「綾瀬」
「やだ、せんせー。紛らわしいから名前で呼んでって、このまえ言ったじゃん。クラスに同じ苗字が二人いるんだよ。美優って、名前で呼んでよ」
 美優は傘をたたんでから、雅哉の腕にするりと自分の腕を絡ませた。
「ねえ、せんせ、どうしてこんなところにいるの? もしかして私に会いに来てくれたとか?」 
 雅哉はさり気なく美優の腕を解くと、ちら、と視線を投げてきた。美月は了承してあらかじめ用意していたシナリオを披露する。本当は両親のために作ったシナリオだ。
「駅を出たところで転んでしまって、ちょうど通りかかった先生が送ってくれたの」
 へえ、そう、と美優は興味なさそうに言い、雅哉の腕を掴んで引っ張った。
「せっかくだから上がっていきなよ。親いないし、気を遣うこともないよ」
 雅哉は再度、美優の腕を外すと、背中に軽く手を添え門扉の方へと押しやった。
「親がいないならさっさと家に入って、しっかり鍵かけろ」
 いいな、と視線で念押しされた美月は、はい、と頷いた。
「えー、けちー」
 不貞腐れる美優を尻目に、雅哉はさっさと車に乗り込む。美月は深く頭を下げ、美優は忙しなく手を振った。車はゆっくりと走りだす。角を曲がり車が見えなくなったところで美優が振り返った。
「ねえ、あんたもしかしてさ、先生に気がある、とか?」
「……先生は、『先生』だから」 
 なにそれ、と美優はおかしそうに笑った。
「先生だなんだって言ったって、そのへんの男と大して変わりはないわよ」
 きれいにネイルの施された細い指が、長い髪をかき上げる。ほとんど黄色に近い髪が、ぱらぱらと肩に落ちた。
「ちょっと本気でいっちゃおっかなあ」
 ちら、とのぞいた舌が唇をゆっくりと舐めた。赤い唇。赤い──舌。濡れた唇が艶やかに弧を描く。
(ねえ、お願い。もっと、もっと──)
 耳元で、しっとりと湿った声が聞こえた気がした。喉の奥のほうからせり上がってくるものを感じ、口元を押さえる。こめかみを汗が伝った。
「だって、黒川君のこと、」  
 辛うじて絞りだした声に、「ああ」という美優の冷めた声が被さる。
「いいよ、もう。だってあいつ、あんたに気があるんでしょ?」
「けど、私はべつに」
「私のことならべつに気にしなくていいわよ。もうどうでもいいし、欲しいならあんたにあげる。その代わり私は先生貰うしー」
「あげるとか貰うとかって、黒川君も先生も物なんかじゃ、」
 あはは、という高らかな笑い声が弾けた。首を傾け、美優が美月の顔を覗き込む。
「さっすが、委員長様。美月ちゃんはいい子ちゃんだもんねー。私なんかとは違ってさ」
 返す言葉を探して口を開き、結局、見つけることができないまま、口を噤む。
「ま、せいぜいがんばってよね、いい子ちゃん」
 ひらひらと手を振り、美優は家のなかへと消えた。頬に冷たいものがあたり、視線を上げる。雨がまた、降り出したようだ。街灯のあかりを反射した雨が光の筋となって落ちてくる。目を閉じると瞼に雨があたった。頬を伝う水の粒を指の腹でそっと拭う。
 雨はまだ、当分止みそうにない。  


                              第2章 了    

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