第2章 五月雨の深呼吸

-06-

「茶くらい入れてやる。適当に座って待ってろ」
 そう言ってキッチンへと向かった雅哉のあとを慌てて追う。扉はないものの、単身者用にしては珍しく、キッチンは独立したつくりになっている。
「先生、手伝います」
「ん? ……ああ」
 雅哉は吊戸棚からコーヒーと紅茶を、キャビネットからはマグカップを四つ取り出した。
「どっちにする?」
 コーヒーはインスタントだったが、紅茶はティーバッグではなくきちんとした缶入りのものだった。すでに封は切られている。
「先生、紅茶とか飲むんですね。ちょっと意外」
「いや、俺はあんまり、」
 言葉は不自然に途切れた。俺はあんまり。──じゃあ、誰が?
「……先生は、ブラックでいいですか?」
「ああ」
「じゃあ、私、やりますから」
「そうか?」
「はい」
「じゃあ、任せる。砂糖とかはそこの棚に入ってる。スプーンも同じとこだ。あとほかに要るもんあれば適当にあさって使ってくれ」
「わかりました」
 雅哉が戻ったリビングからは「せんせー、ひまー。テレビ観ていい?」という紗枝の声に続き、テレビの音が聞こえてきた。しばらくすると二人の笑い声も。どうやらバラエティ番組のようだが、ちゃんとした音までは拾えない。
 コンロに置かれていた黄色のケトルに水を注ぎ、火にかける。ティーポットはキャビネットの奥のほうにしまい込まれていた。紅茶の缶を開ける。ぽん、という小気味のいい音と共にダージリンのいい香りがふわりと立ちのぼる。 
 紅茶は有名ブランドのものだった。高校生の自分にはなかなか手が出ない高価なものだ。スプーンを取り出そうと引出しを開け、手が止まる。目についたのは、柄の先にてんとう虫がついたかわいらしいティースプーンだ。美月はその横にあったシンプルなスプーンを取り出し、引出しを閉めた。
 ティーポットの蓋をとり、茶葉を入れる。割ってしまったりしないよう、丁寧に扱う。白い陶器製のそれもまた、そのあたりで手に入る安価なものではないということはひと目見て分かった。
 胸の奥のほうでゆっくりと頭を擡げたものが、ぞろりと這い出してくる。そのおぞましい感触に、思わず身震いする。それは皮膚を伝いのぼり、やがてするすると首に巻きついた。緩やかに締め上げられ、息苦しさを覚える。目を瞑ると、そのさまが鮮明に想像できた。どす黒く禍々しいものが幾重にも、鎖のように巻きついている。醜く、汚い。怖いのは、それがどこか別のところからきたのではなく、自分の身の内で形作られたものだということだ。
「どうした?」
 ふいに耳元で声がし、ハッと目を開ける。伸びてきた手がガスのスイッチを回したところだった。火にかけたままだったケトルが噴いていたらしく、コンロの周りは噴きこぼれた湯で濡れていた。
 慌てて布巾を取り、湯を拭こうと伸ばした手は、鋭い痛みに襲われる。小さく悲鳴を上げ、とっさに手を引く。甲の部分がケトルに触れたのだ。
「ばかか、おまえは!」
 雅哉の手が美月の手首を掴んだ。え、と思う間もなく、そのまま流しに持っていかれる。雅哉は水道の蛇口をひねると、自分の手もろとも盛大に水を浴びせかけた。
「……すみません」
 さらに何かを言おうとし、けれど、言うべき言葉は見つからず、黙る。水がシンクを叩く音だけが響き渡る。手首はまだ、掴まれたままだ。
「大丈夫か?」
 やがて雅哉がぽつりと尋ねた。はい、と頷く。痛みはもうほとんどなかった。掴まれたままの手首のほうがむしろ痛い。痛いというより、熱い。
 ふと、雅哉のTシャツが濡れていることに気がついた。勢いの強い水は手にあたり、あちこちに飛び散っていた。
「先生、服が」
「いい」
「でも」
「いいから」
 雅哉は視線を外さず言った。ずっと見ている。美月の手を。何事も見逃さないというように。痕にならないかと心配してくれているのかもしれない。
 もう大丈夫ですから。言うべき言葉は見つかった。だが、出てこない。喉の奥に引っかかっている。もうすこし。もう少しこのまま。熱は、べつの場所から広がっていく。腕を伝い、身体中、頭のてっぺんから爪先まで。
 鎖は、いつの間にか消えていた。

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