第2章 五月雨の深呼吸

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「五分待て」
 そう言って閉じられた扉は、きっちり五分後に再び開かれた。
 雅哉はスウェットからTシャツと膝丈のパンツという格好に着替えていた。初めて会ったときはともかくとして、学校ではずっとスーツ姿だったため、何だかとても新鮮だ。
「はい、先生、お土産」
「あ、ああ」
「一応、保冷剤入ってるけど、今日蒸し暑いからすぐに冷蔵庫に入れてね。先生、どんなの好きか分からなかったから各種取り揃えてみた。あ、お金とかはべつに気にしなくていいから。今日、出掛けにお父さんにお小遣い貰ったしさ。それに、ワンカットがすごく大きいわりに結構安くてさ。ただ、初めて行く店だから味はよく分かんないんだよね。美味しかったらいいんだけど。あ、私らの分も入ってるからあとで皆で食べよーね」
「あ、ありがとうな」
 雅哉は半ばのけ反るようにして受け取った。麻衣に言われた通りケーキをしまい、雅哉は改めて迷惑な訪問者を前にため息をついた。
「ったく、何なんだ、おまえらはいきなり」
「先生、もしかして起きたばっか?」
 雅哉の顔は玄関に出てきたときよりは幾分すっきりして見えたが、いつもきちんと整えられている髪はやや乱れ気味だ。
「ああ、そうだよ。本当なら昼までは寝るつもりだったんだ。きのうは遅かったからな」
 雅哉はそう投げやりに答えたあと、大きな欠伸をひとつ、こぼした。
「えー、なになにー? 遅くまで一体何してたんですかー?」  
 麻衣がからかうような口調で尋ねる。
「親睦会だよ」
「親睦会って?」
「まんま。教師同士でしんぼくを深める会」
「ああ、要するに飲み会ね。で? 親睦は深まった?」
「さあ? そこそこには深まったんじゃねーの?」 
 言いつつ、雅哉は床に落ちていた雑誌を拾い上げ、センターテーブル横のマガジンラックに放り込んだ。
 部屋は以前来た時に比べると、ずい分と様変わりしていた。
 山ほど積み上げられていた段ボール箱はもちろん一つもなく、空だったラックには新書本や雑誌、単行本の類がきちんと分類分けされて並べられ、空いたスペースにはさり気なく小物がディスプレイされていた。テレビ横には白い陶器の鉢に植えられたオーガスタ。床に直置きされていた時計はきちんと壁におさまっている。余白の多かった壁には、数枚のポストカードが押しピンで留めつけられていた。とはいえ、相変わらず物はそれほど多くはない。 
「先生、男の人のわりにすごく部屋きれいにしてるね」
 美月が思ったことを、そのまま紗枝が口に出した。
「うち、お兄ちゃんいるけど、部屋、めっちゃ汚いよ。脱いだパンツとかまんま置いてあったりしてさ。もう、あんなとこ絶対入りたくないもん」
「男だって綺麗好きなやつはいるし、女だって部屋汚いやつはごまんといるだろ」
「そりゃまあね」
「そういうおまえだってちゃんと部屋片付けてるんだろうな?」
「ひっどーい。私はちゃんとすごく綺麗好きだし」
 雅哉と紗枝のそんなやりとりを聞きながら、美月は視線を滑らせた。リビングと隣り合った寝室の扉は半分ほど開いていた。ベッドが見える。カーテンが開けられているため室内は明るく、以前感じたような淫靡な雰囲気をそこに見ることはなかった。だが──
 肌に沈む指の感触。鼓膜を震わせる囁き声。触れた肌の熱さ。乱れたシーツが目に入った途端、あの日の記憶がさざ波のように押し寄せてきた。何もかもが、つい昨日のことのように鮮明に蘇る。そして追想は、唐突に断ち切られた。雅哉の手で、ぴっちりと閉じられた扉によって。
「大体、おまえら、どこでここの住所調べた」
 扉を閉めた雅哉が振り返る。 
「えー、職員室でー、担任の先生に暑中見舞いのハガキ出したいんですけどー、って言ったら教えてくれたよ」
 ねー、と麻衣と紗枝が顔を見合わせる。雅哉は額を押さえた。  
「暑中見舞いっておまえ、今はまだ五月だろうが」
「うん、ちゃんと夏休みになったら葉書出すからね。もうね、先生への愛をぎっしりみっちり溢れんばかりに詰め込んで」
 はいはい、とやる気なく返事を返した雅哉がふと、視線をこちらに向けた。
「大体、綾瀬、」
 急に話を振られ、びくり、と身体が跳ねる。
「は、はい」
「なんでおまえがこのメンバーのなかに入ってるんだ?」
「……あ、す、すみませ、」
 心臓が凍り付いた。迷惑だ、と言われたような気がした。あたりまえだ。自分の今までの彼に対する態度を考えれば。
「この二匹の暴走を止めるのは、クラス委員であるおまえの仕事だろうが。それなのにおまえまでその暴走に加わってどうする」
「えー、何それひどーい」
「二匹ってなによ。二匹って」
 二人が口々に非難の声を上げるなか、美月は「すみません」と言い、それから笑みは自然と漏れた。

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