第2章 五月雨の深呼吸

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 放課後の教室は、傾いた太陽に照らされ赤く染まっていた。持ち主のいなくなった机も椅子も、黒板も、何もかも。
 書き上げた学級日誌を閉じ、組んだ腕を枕に空を眺める。五月になり、空は少し低くなったような気がする。乾いた風がカーテンを舞いあげ、剥き出しの皮膚の上を滑っていく。上空ではもう少し強く風が吹いているようだ。ちぎれた雲が早いスピードで流れていく。
 風の音は、聞こえない。頭のなかは携帯に繋げたイヤホンから流れ出る音に満たされている。やさしいピアノの旋律、やわらかな声が鼓膜を震わせる。目を瞑ると、世界は音楽に染まり、静かに揺れた。心地いい。なのに突然、音がこぼれ落ちた。
「へえ、こういうの、聞いてるんだ」
 顔を上げると、緩められたネクタイのむこう、開いたシャツからのぞく鎖骨が目に飛び込んできた。すぐそこに男子生徒がいた。耳に、美月から奪ったイヤホンを突っ込んでいる。コードの長さのこともあり、やけに顔が近い。美月は片耳に残ったイヤホンを耳から外すと、椅子を引いて距離をとった。
「なに?」
 声は自然と尖った。だが、男子生徒は悪びれもせず、「これ、なんて曲だっけ?」と首を傾げる。踵を履き潰した上靴をぺたぺたと床に打ち付け、リズムをとっている。イヤホンを返してくれる気はないらしい。小さくため息をつく。
「あー、あれだ。なんか聞いたことあると思ったら、最近、ラジオとかでよくかかってるやつだろ。ドラマかなんかの主題歌になってる、」 
 ぱっと目を輝かせ、笑う。何だか宝物を見つけたちいさな子供みたいだ。
「もういい?」
 今度は少しやわらかな口調で言うと、彼は肩を竦め、イヤホンを耳から外した。
「でもさ、ちょっとアレンジ違うよな。声質もなんか違う気がするし」
 言いつつ、彼は持っていた斜め掛けのスポーツバッグを下に置くと、すぐ横の机にどっかりと腰を据えた。一体、何だというのだろう。今までに彼と言葉を交わしたことは一度もないはずだ。意図が掴めず、眉をひそめる。
「ねえ」
「ん?」
「なに?」
「なにって?」
「何か、用?」
 少し考え、男子生徒は「俺のこと、知ってる?」と尋ねた。美月が首を振ると、彼は、はあ、とオーバー気味に肩を落とした。
「傷つくなあ。俺、サッカーでインハイ出たし、MVPもとったし、校内でもそこそこ有名だと思ってたんだけどなあ。まさか名前さえ覚えてもらってないなんて。俺ってもしかしてとんだ自惚れ野郎?」
 すこし申し訳ない気分になり、ごめんなさい、と謝る。
「私、サッカーとかあまり興味がなくて」 
「黒川圭介」
 彼は言った。
 その名前には聞き覚えがあった。それもごく最近、耳にしたような気がする。
 顔は見たことは、ある。すらりと背が高く、なかなかに整った顔はよく日に灼けている。わりと大きな目は悪戯っぽくよく表情を変えるが、太く濃い眉は意志の強さを窺わせた。
 たしかにモテそうではある。実際、モテるのだろう。自惚れでもなんでもなく。
 モテる男の子の話や、誰それが付き合っているという噂は友人づてに耳に入ってはくるものの、正直そういった類のことにあまり興味はなかった。
 運動がそれほど得意ではないこともあり、誰がどの部に所属していて、その子の位置づけがどのようなものか、などという知識はほとんど皆無に等しい。
「えーと、黒川、くん」
「圭介でいいよ」
「黒川君、ところで何の用?」 
 圭介は何か言いたげに口を開いたが、諦めたように息を吐き、床に置いたバッグを掬い上げた。なかから何かを取り出す。
「ほい」
 目の前に置かれたのは、青い水玉模様のランチバッグだった。見覚えがある。今朝、美優が自分用の弁当とはべつにもうひとつ持って行ったものだ。
「弁当、すっげーうまかった」
「……あー、うん。わかった。美優に、伝えとく」
「なんで? あんたに言ってんだけど」
 一瞬、言葉につまる。
「でも、これは美優があなたにって」
 そしてそのタイミングで思いだした。黒川圭介。その名前をどこで耳にしたのか。先週の昼休み、ここで、だ。
(黒川圭介って、けっこうよくない?)
(あー、あの、サッカー部の。へえ、美優ってああいうのタイプなんだ。ちょっと意外)
(なによー。いいじゃん、べつに。んで、志保は? だれかいい人いないの?)
(えー、私は……) 
「でも、作ったのはあんただろ?」
 とっさに、言葉が出てこなかった。 
「あんたさ、自分の弁当、いつも自分で作って来てるんだよな? 綾瀬の、いや、えーと、綾瀬妹の分も」
 くそ。紛らわしーな、と圭介が呟く。
「そう、だけど、でもこれは、黒川君の分は私じゃなくて美優が、」
「あいつ、料理、くっそ下手だよな」
 圭介が苦く笑う。その通りだった。そもそも美優が家でキッチンに立つことはほとんどない。
「前にさ、女子が調理実習してたときに覗きに行ったことあんだよなー。あいつの包丁さばき、とんでもなかったもんな」  
「でも、もしかしたらそのあと練習して上手くなった、とか考えないの?」
 我ながら、下手な嘘だった。心の片隅で、なんで私がこんなことを、と思う。作る弁当が一つや二つ増えたところで作る手間に大差はないが、面倒事はご免だ。
 私は頼まれたからひとつ余分に作っただけ。そのあとのことは、知らない。
「とにかく、美優にはちゃんと伝えとくから」
 弁当箱を掴み、立ちあがる。と、腕を掴まれた。
「まだ話、終わってないんだけど」
「私のほうは終わった。言いたいことあるなら、直接、彼女に言って」
 そういって腕を引くが、しっかりと掴まれた腕はぴくりとも動かない。
「ちょ、離し、」
「あんたこの前、保健室で泣いてたろ」
 全身が凍り付いた。ゆっくりと顔を上げると、まっすぐな視線にぶつかった。
 圭介は美月を見ていた。強い視線に射すくめられ、身動きがとれなくなる。何か言わなければ、と思うのに、言葉が出てこない。
 一体どこで? いや、どこで、いつから見られていた? 
 喉の奥はからからに干上がり、うまく呼吸することができない。掴まれた部分が痛い。
「おーい、おまえら、下校時刻はもうとっくに過ぎてるぞ」
 べつの声が、割って入った。心臓がぎゅうっと鷲掴みにされた気分だった。
「これまたすっげえタイミング」 
 美月に視線を固定したまま、どこか楽しそうに呟かれた言葉に、冷たいものが背中を伝った。
 彼は知っている。
 そう思った。
 そう思ったら、教室の入り口に顔を向けることができなかった。
 雅哉を、見ることができなかった。

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