第1章 桜の花のむこうには、

-06-

 潜り込んだ保健室の布団は、消毒薬の匂いがした。嫌な、匂いだ。とても嫌な。
 泣き腫らして重たい瞼と、相変わらずな腹部を抱え込み、眠る。うつらうつらと浅い眠りを漂い、夢ばかり見ていた。
 見る夢はいつも同じだ。
 あの夜の、
 いや、正確にはあの夜のあとの。


 あの日、目が覚めたのは、明け方近くだった。カーテンの隙間から覗く外はまだ夜の気配を色濃く残していたが、空の裾、淡く白んだ空が朝の訪れが近いことを知らせていた。
 濃紺のシーツが濁って見える。コンタクトレンズを入れたままで眠ってしまったためだ。何度か瞬きをしたあと視線を巡らせ、ぎょっとする。すぐ目の前に男の顔があった。そうか、と納得する。やけに身体が強張っていたのは、男の腕に抱かれていたせいなのだと。
 頭の下と、腰のあたりに添えられていた男の腕を慎重に外し、身体を起こす。はだけた胸元に何かを見つけた。赤い、虫刺されのような。触ってみるがとくに痛みはない。鬱血している。それがいわゆるキスマークだと気がついたのは少ししてからだ。
 二度抱かれた身体はあちこちにその残滓をこびりつかせ、否が応でもそのときの記憶を揺り動かした。絡んだ指先、熱い吐息、全身至るところに刻まれた快楽、そして痛み。
 行為を思い出し身体を熱くさせる自分はひどく淫らで、堕落した女のように思えた。
 腕を巻きつけ、自らの身体を抱く。たった一晩で、きのうまでとは違う自分に書き換えられてしまった。ずい分と遠くへ来てしまったような気がする。もう、戻れない。二度と。
 ヘッドボード部分に身体を預け、改めて男の顔を眺める。
 黒い、艶やかな髪が額に流れ、男性にしては濃く長い睫が目元に影を落としている。なめらかな肌といい、一見女性的ではあるものの、顎のラインに沿ってうっすらと生えたもの、それから首の隆起は、やはり彼が男であることを声高に主張している。
 部屋に舞う埃がカーテンから漏れる光の粒を反射してきらきらと光りはじめた頃、美月はそっとベッドを抜け出した。
 身体のあちこちがべたべたし、気持ち悪い。シャワーを浴びたかったが、我慢した。辺りに散乱した下着と服を拾い、素早く身につける。着ていたはずのコートを探す。隣のリビングのカーテンレールに、ストールといっしょにハンガーにかけられていた。
 支度を済ませ、クローゼットの扉の鏡を見る。髪は乱れ、化粧も崩れてひどい有様だ。洗面所を借りようかとも思ったが、そのとき、男が寝返りを打った。あまり時間はなさそうだ。
 ベッドの足元に置かれていたバッグを取り、玄関へと向かう。靴を履こうとしたところで、あ、と慌てて部屋へと引き返した。あやうく、忘れるところだった。サイドテーブルの上に置かれていたものを手に取る。
 男はまだ眠っていた。心のどこかで、目を開けてくれないかと願っている自分に苦笑する。
 不思議な、出会いだった。
 大した起伏もない、平坦な道を歩いていた美月の目の前に突然現れた人。
 だが、考えてみれば、自分は彼の名前さえ知らないのだ。彼もまた同じ。
 きっと彼にとっては、とるに足らない出来事でしかないだろう。日々の些末事に紛れて消える、単なる日常の一コマ。
 それで、いい。
 道で偶然拾った、甘い甘いカケラ。いずれは溶けて、なくなるだろう。なくなって、くれるだろう。

 ありがとう。さようなら。
 玄関の扉を、静かに、閉めた。

 
 生理痛はずい分とよくなったが、結局、午後の授業はさぼってしまった。昼休みに心配して様子を見に来てくれた麻衣に鞄を持って来てもらい、そのまま早退した。職員会議だとかで、雅哉には会わずにすんだ。よかった。こんな顔、見せられるわけがない。麻衣と、母親は何とか誤魔化したが、雅哉の前で平常心を保つ自信が、今はなかった。
 少し寝るね、と言い置き、自分の部屋へと向かう。制服を脱ぎ、鏡の前に立つ。胸元にあったしるしは、とうに消えた。なのに、痛い。元々痛みなどなかったはずなのに。
 再び、あの男が目の前に現れてから、そこはずっと痛みを訴え続けている。痛みは日増しにひどくなる。
 新学期が始まったあの日、男の名前を知った。それから、彼が教師だということも。だが、彼が、知ることはない。あの日の女が、綾瀬美月という名前だということを。
 きっと、知りたくもないだろう。知らせるつもりも、ない。
 あの日、彼が会った女はもう、どこにもいない。
 外していた眼鏡をかける。そこにはひどく顔色の悪い、地味で平凡な高校生の女の子が立っている。彼にとって自分は、生徒という記号でくくられた一人だ。それ以上でも、それ以下でもない。
 知られてはいけない。知られたく、ない。
 彼がもし真実を知ってしまったとして、その瞬間、顔に浮かぶ感情を受け止めきる自信がない。
 もし、あの日の出来事を、「後悔」されてしまったら。
 そのことが、怖かった。


                              第1章 了

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