序章 月のきれいな夜だった。

-04-

 深く深く沈んでいた意識がゆるゆると浮上するのを感じた。やけに重たい瞼をなんとかこじ開けると天井が見えた。間接照明の埋め込まれた、見覚えのない天井だ。
 頭が重い。苦心して身体を起こすと、たっぷりと羽毛の詰まってそうな布団が滑り落ちた。ゆっくりと首を巡らせる。大きめなソファーに壁掛けのテレビ。壁際の、本棚なのか飾り棚なのかよく分からないラックには何も置かれていない。白い壁に白い天井。物が少ないため白い面積がやたらと広く、あまり生活臭のしない殺風景な部屋だ。と思ったら、隅の方に大量の段ボール箱が積み上げられているのが目に入った。これから引っ越しをするのか、あるいは引っ越してきたばかりなのか。
 状況は把握できた。自分がどうやらリビングと隣り合った寝室のベッドに寝かされているらしいということ。分からないのは、どうしてここにいるか、だ。
 頭の奥のほうががずきずきと痛む。私、どうしたんだっけ。こめかみを押さえ、おぼろげな記憶を掘り返していた美月は物音に顔を上げる。扉を開け、男が部屋に入ってきたところだった。そうだ。思いだした。霧散していた記憶が一気に集約する。彼に助けられ、そのあといっしょに食事をした。店を出て、それから、
 ──それから?
「目、さめたか。どうだ、気分は?」 
 Tシャツにスウェットのズボン。肩にかけられたタオルと、濡れた髪。どうやら風呂上りらしい。
「あの、私……?」
 タオルで髪を拭きながら、男が近づいてくる。
「覚えてないのか? 店の前でいきなり倒れたんだよ」
 半ば、予想していた答えではあった。できれば外れていてほしかったが。
「家は知らないし、まさかあそこに置いてくわけにもいかないから、とりあえず俺ん家に運んだけど」
 運んだ。連れてきた、ではなく、運んだ。
 その言葉から連想される事柄に、美月は思わず顔を覆った。迷惑をかけた。しかもつい数時間前に会ったばかりの相手に、多大なる迷惑を。
「ごめんなさい」
「酒飲めないなら、飲めないってはじめから言えよ」
 当然のことながら気づかれていた。あたりまえだ。たった数杯のカクテルでつぶれてしまうなど。だが、男の口調は咎めるというよりは、どちらかというとバツが悪そうに感じられた。飲めない相手に飲ませてしまった。そういった類の罪悪感。
「……ほんとうに、ごめんなさい」
 申し訳なさに、布団に突っ伏すようにして頭を下げる。
 ちがう。あなたが悪いんじゃない。心のなかで呟く。すすめられはしたが、それほどの無理強いではなかった。飲んだのは自分自身、興味もあったからだ。グラスの中味に、そしてそれを飲んだ先にあるものに。結局、とくに得られたものはなかった。好奇心の先に残ったのはほんの少しの高揚感と、その何倍もの不快感だけだった。
「水でも、飲むか?」
 静かに男が尋ねる。たしかにひどく喉が乾いていた。俯いたまま頷くと、男の気配が遠のいた。足を引き寄せ、抱える。立てた両膝に額をのせ嫌悪感に沈んでいると、ばたんと冷蔵庫の閉まる音がした。
「ほら」
 男が戻って来て、ベッド脇のサイドテーブルにミネラルウォーターのペットボトルが置かれる。それから、目の前に何かが差し出された。CDだ。促され、手にとる。
「……これ、は?」
 きれいなジャケットだった。夜の海と、月。CGではない、写真だ。波ひとつたっていない穏やかな濃紺の海に、青白い月が長く光を落としている。下の方に印字されているのは、聞いたことのない歌手の名前だ。
「さっき店で、好きだって言ってた曲があったろ?」
 店では最新のヒットチャートがBGMとしてかかっていた。とくに入れ込んでいる歌手がいるわけでも、それほど音楽を聞く習慣のない美月でも一度は耳にしたことがある曲ばかりだった。そのなかにメロディラインがとてもきれいな曲があったのだ。
「じつはあれ、カバーソングなんだ。そっちがオリジナルで、そっちのほうはそれほどヒットはしなかったんだけど、俺としてはそっちのオリジナルのほうがおすすめ」
 へえ、とジャケットを再度、眺める。たしかに同じタイトルだ。 
「それ、やるよ」
「え?」
「中古で悪いけど」
 それから、と男はペットボトル横に置かれていたビニール袋のなかを探った。出てきたのはどこのコンビニにも大抵置いてある安価な袋入りのシュークリームだ。
「手、出して」
 持っていたプラスチックケースを置き、言われるままに手を出す。袋を破り、取り出されたシュークリームが掌の上にのせられる。
「悪いな。時間が時間なだけにコンビニ行ってもそれ一個しか残ってなかった」
 そう言って蝋燭が一本、無造作に突き立てられる。男は取り出したライターで、蝋燭に火を灯した。男が横に座り、ベッドのスプリングが鈍くきしんだ。
「ハッピーバースデー」
 男の声と共に、何かが頬にあたった。手をやり、濡れていることに気がつく。涙だ。自分は今、泣いているのだ。

ランキングに参加してます。
inserted by FC2 system