序章 月のきれいな夜だった。

-03-

 男に連れられて来たのは、そこからほど近い居酒屋だった。奥まった分かりにくい場所にあるにも関わらず店はとても混んでいたが、入れ替わりに空いた個室へとすぐに入ることができた。
 正直、こういう店に来るのはほぼ初めてに等しい。すこし緊張してしまう。とくに好き嫌いはないから、と注文は何度か来たことがあるという男に任せる。ほどなくして料理が運ばれてきた。近海物の魚介を用いたメニューを中心とした創作懐石料理が掘り炬燵となっているテーブルの上をあっという間に埋め尽くす。
「いただきます」
 まずは、一番のおすすめだという地だこの石焼に手をつけた。男に倣い、熱せられた石に生のタコを押し付けて焼く。ジュッと音がして、身がぐぐっと縮まる。紅葉おろしの入ったポン酢にくぐらせ、口に入れる。弾力はあるのに、思ったよりやわらかい。はじめての食感に、美味しい、と声は自発的に出て行った。
 刺身の盛り合わせに、とろとろに煮込まれた豚の角煮。揚げ出し豆腐に生春巻き、チーズと大葉の天麩羅。どちらかというと、女性向けのラインナップなような気がする。料理はどれもこれも本当においしかった。夢中で箸を口に運び、そしてふと気がつく。男がほとんど箸をつけていないことに。ビールを飲みつつ、つまむ程度だ。
 メシ、付き合って。そう言って誘われたのに、これでは逆だ。自分が付き合ってもらってる。
「食べないんですか? ……と、食べないの?」
 敬語とか堅苦しい、とついさっき言われたばかりなのを思い出す。
「ん? まあ、ぼちぼちな。で、そっちは何も飲まないのか?」
「えっと、まあ……ぼちぼち」
 男を真似てそう返し、ウーロン茶の入ったグラスに口をつける。
「飲めるんなら付き合え」
「いや、でも」
「車で来てるとかじゃないんだろ」
「……うん、まあ」
 じゃあ、とドリンクメニューを差し出される。ざっと目を通し、ゆずサワーを注文する。
「仕事では飲まないのか? ああいうところでは客にすすめられるだろ」
「私はあまり」
「お触りとかなんとかあるんじゃねーの?」
「ううん、そうゆうのはないよ、一応」
「ふうん? ま、俺もあんまりああいうところには行ったことないから、よくは知らないけど」 
 そっか、あまり行かないんだ。なんとなく嬉しくなる。
「基本そういうのはナシなお店だから。女の人が何人かいて、ちょっとしたお料理を出して、楽しくお酒を飲むお店っていうか。なかには酔ってそういうことしちゃう人もいるけど」
「ああ、さっきみたいなのとか」
「うん、まあ。……あ、ううん。あの人は酔って、とかっていうのは一切なくて。だから少しびっくりした」
「ま、男なんてそんなもんだろ」
 男はひと言で片付けた。
「そんなもん、なの?」
「そんなもん、だよ」
 男はさらに重ねて言い、一気にグラスを空にした。
 かなりのハイペースでグラスを空けていくが、男の様子はさほど変わらない。強い体質なのだろう。美月はゆずサワーをちびちびと飲んでいた。正直、とてもおいしいとは思えない。喉の奥はぴりぴりするし、かと思えば胃のなかはひどく熱い。  
「けど、どっちにしろ酔っぱらいの相手するのはしんどいだろ。さっきも言ったけど、あんた、そういうあしらい下手そうだし」
「んー、でも私はほとんどカウンターの奥だったから」
 男が視線で尋ねる。
「私はお店で出すお料理作ったりするのがメインだったの。カウンター越しにお客さんと言葉を交わすくらいのことはあったけど」
「……へえ」
「でもたしかに私にはあまり向いてない仕事だったと思う。ほんの少しの期間だけだったから何とかやれたかなって」
「ほんの少しって?」
「手伝いで行ってただけだから、お店、今日までだったの」
「……そうか」
 ならよかった、と呟く男に「なにが?」と尋ねる。
「いや、さっきは思わず手出ししたけど、結果、まずったかな、とも思ったりしたから」
「まずったって?」
「ほら、ああいうのがエスカレートしてストーカーみたいになったり、ってのもあるだろ。だから」
 あ、うん。としか言葉が出なかった。驚いた。そこまで思いを巡らせてくれていたのか、と。ふと、テーブルの上に重ねて置かれた煙草とライターが目にとまる。ここはとくに禁煙席ではない。男に吸っていいかと尋ねられもしていないし、吸わないでと頼んでもいない。けれど、男は煙草を吸おうとはしない。──そういう人なのだ。そう思った。
 その後、男のペースに釣られるようにして、グラスを重ねてしまった。他愛もないおしゃべりをつまみに飲むお酒は少しずつ、おいしい、と感じるようになっていた。
 調子に乗りすぎた、と後悔したのは店を出るときだ。足がもつれて、身体が重い。なのにふわふわと、まるで雲の上にでもいるかのようにも感じる。
「今日は本当にありがとう。あの、助けてもらったのに、ご飯までご馳走になって」
 ちゃんと、喋れているだろうか。舌がうまく回らない。
「いや、こっちこそ無理に付き合わせて悪かったな」
「いいの。『今日』を一人で過ごすのはちょっとしんどいな、って思ってたから」
 人の良さそうな男の罪悪感を少しでも軽くできたら、と思って言ったのだ。
「……今日?」
「あ、うん。えーと、あの、今日、誕生日で」
「おまえ、なんでこのタイミングで」
 だが、それは返って逆効果だったらしい。呆れたように額に手をあてた男の顔にはべつの感情も見て取れた。ああ、また。彼はおそらく後悔してる。それならもっと、とか何とか、そういった類の後悔。
 やさしいなあ、などとぼんやりと思っていると、彼の姿がふいに、ぐにゃりと歪んだ。おかしい。居酒屋の暖簾も乾いたアスファルトも、見下ろした自分の足も何もかも。あれ、おかしいな。呟いた声も呂律が回ってない。
 そして世界は突然、暗転した。

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